(天下人・豊臣秀吉の息子)
豊臣秀頼は、百姓のせがれから天下人に成り上がった豊臣秀吉の息子です。
豊臣秀吉が天下統一を果たした1590年から3年たった1593年8月3日に、
秀吉57歳の時の子として大坂城で誕生しました。
母親は秀吉が使えていた織田信長の妹であるお市の方の長女の茶々=淀君です。
( 秀頼の人生)
豊臣秀頼は、1598年8月に父・豊臣秀吉が死ぬと6歳で跡を継ぎます。
この時、秀吉は「秀頼を頼む」と言い残しますが、秀吉が死んでしまうと当然のように徳川家康がこの約束を破っていきます。
1600年、秀頼8歳の時に起きた関ヶ原の戦いの後、徳川家康の策略で所有地を削減され200万石から65万石の大名へと転落します。
そして1603年、徳川家康は征夷大将軍になり江戸幕府を開き、秀頼の立場は、より
ないがしろにされます。
この年の7月には家康の息子・秀忠と澱君の妹の江の間にできた千姫(つまり家康の孫)と結婚します。この時、秀頼は11歳です。
1611年3月、京都の二条城で秀頼は徳川家康と会見します。
このとき秀頼は19歳。家康は秀頼の姿を見て、秀頼はいずれ徳川の脅威になると感じます。
1614年、秀頼が命じて作らせた京都の東山にある、方広寺の鐘に刻まれた文字「国家安康」「君臣豊楽」が徳川家康の「家」と「康」を分断し、その一方で豊臣家の繁栄を祈願していると言い出し、大坂城を攻めます。大阪冬の陣です。
(大坂冬の陣)
大坂冬の陣では浪人衆の活躍や大坂城の強靭な防御のために、徳川軍は苦戦し、城内に攻め入ることができません。
そこで幕府軍は城内に心理的圧力をかけるべく、昼夜を問わず大坂城に砲撃を加えます。
そのうちの数発の砲弾が大坂城の本丸まで届いて櫓を破壊し、仕えていた女性の数名が命を落とします。
これに淀殿が弱気になり、家康の提案により和議が実現します。
【大坂冬の陣でカルバリン砲が発射された
と推定される場所を訪れたときのブログ】
この和議で幕府方は大坂城の堀を埋め、城郭の一部も破壊し結局、大坂城は本丸を残し堀を埋め尽くされます。
翌年1615年に、大坂夏の陣が起きます。
幕府軍は大坂城内に入城し、やがて天守閣が炎上し、秀頼母子は山里丸に逃げますが、徳川軍に包囲されます。
やがて総攻撃を受け、秀頼は淀殿や大野治長らと共に自害して果てたと伝えられています。享年23(満21歳没)。
について書いたブログ】
【淀君並殉死者三十二名忠霊塔について書いたブログは
ココ】
(秀頼関連の神社)
大坂城内には、豊臣秀吉、息子の秀頼、秀吉の弟の秀長の3人を祀った豊國神社が
あります。
【豊國神社について書いたブログはココ】
・・・ということで8月3日は、
豊臣秀頼が生まれた日です。