1万円札や10円玉に描かれている平等院鳳凰堂に
行ってきました!
おっさんは、史跡をめぐる時に、眺めるだけではなく、どういう時代背景があるのか?どんな人が何の目的で作ったのかをよく考えます。そうしてそれらを連携させると、史跡の意味や重要性が理解できて楽しいですよ。
こういう見方は推理を解くみたいでおもしろいのでお勧めです!!
(当時の背景)
鳳凰堂を見る時のポイント1、どういう時代背景があるのか?
この宇治平等院鳳凰堂が建てられたのが1053年。その前年の1052年は、釈迦が死亡して2000年目にあたり、この年から仏の教えがすたれ天災・戦乱が続き末法の世になるという末法思想が流れていました。
そして実際に、疫病や飢饉、戦乱が相次いでいました。
この鳳凰堂には、鳳凰が飾られていて、さらに正面から見ると鳳凰が翼を広げた姿になるというそうです。鳳凰とは想像上の鳥で、この鳥が現れると世の中が平和になると信じられていたものです。 この時代に「鳳凰」ここがキーポイントです。
もう1つの時代背景は、このころ流行した「浄土信仰」です。
念仏を唱えて阿弥陀如来にすがり極楽浄土に生まれ変わることを願う進行で貴族や皇族を中心に広まりました。鳳凰堂には阿弥陀如来を安置する阿弥陀堂があります。
・・・こういう時代背景を考える、次に作った人を見ていきます。
次に鳳凰堂を見る時のポイント2、どんな人がどんな思いで作ったのか?
この平等院鳳凰堂は、藤原頼通が建てたもので、この時期は藤原氏による摂関政治の最盛期でした。藤原頼通は1019年に関白になっています。
藤原頼通の父:道長は、4人の娘を天皇の妃にしました。これまでも娘を天皇の妃にした人は蘇我氏などがいますが、自分の娘を3人以上も天皇に嫁がせたのは藤原道長が史上初です。
ちなみに、彰子(しょうし)は一条天皇、姸子(けんし)は三条天皇、
威子(いし)は後一条天皇、嬉子(きし)は御朱雀天皇にそれぞれ嫁いでいます。
そして、自分の娘が生んだ子どもを天皇にし、その子が小さいときは「摂政」、成人したら「関白」になることで長期間、政治の実験を握りました。
「摂政」「関白」の文字をそれぞれ取って「摂関政治」といいます。
道長が詠んだ有名な「この世をば 我が世とぞと思う望月の かけたることも なしと思えば」の歌は、3人目の威子が後一条天皇に嫁いだ1018年10月16日に祝う席で読んだ一句です。
そして、先ほども書いたように道長の息子の頼通が関白になったのはその翌年、1019年です。
道長の息子で鳳凰堂を建てた頼通にとって、「天皇たちは姉や妹の旦那=義理の兄弟」になります。ここで想像してみてください。「自分は貴族として最高位の関白の位にあり、政治の実権を握り、義弟は天皇、甥も天皇」・・・権力者としては、もうたまりませんよね。
ここでおさらい。
「宇治平等院鳳凰堂は、疫病やら戦乱やらで世の中が乱れ終末思想が流れる中、権力も地位も手に入れていた藤原頼通が建てた。」ものです。
時の権力者になり思うがままに生きていたと思われる藤原氏でも、死後の世界はどうなるか不安で怖かったんでしょうね。だからこの平等院をつくったんでしょうね。
ちなみに道長は糖尿病と心臓病を患い1027年に法成寺(ほうじょうじ)の阿弥陀堂で、阿弥陀如来の手を通した5色の糸を握って極楽浄土に生まれ変わることを祈って62歳で亡くなっています。
さり気ない記述ですが、道長は、この時代に「糖尿病」ですよ。「糖尿病」!!。
いかに道長が贅沢な暮らしをしていたか、庶民とはかけ離れた食事をとっていたかが推測できますよね。
さて、この平等院鳳凰堂の近くには、宇治川が流れていて、ここには「源氏物語」で有名な紫式部の像があります。この紫式部は、道長の長女:彰子に仕えた人です。つながっていますねえ。
宇治川です。
(おっさんが感じた事)
宇治平等院鳳凰堂は、実際に足を運んでみると予想したより小さいです。
豪華さから、いかにも平安時代に、貴族が作った国風文化、という感じがします。
落ち着いた雰囲気もいいです。
今回は、お勉強チックになって恐縮ですが、史跡を訪れ、時代背景や作った人の事を調べながらアレコレ推測するのは楽しいことです。
※平等院鳳凰堂は、10円玉に本殿、そして1万円札には鳳凰が描かれています。
昔は80円切手にも描かれたことがあります。
<<宇治平等院鳳凰堂への行き方>>
JR京都駅から宇治駅下車、徒歩10分
住所:
拝観料 大人:600円、中高生400円、小学生300円
公式HP https://www.byodoin.or.jp/