平安末期と幕末の2度、
歴史の舞台となった関門海峡に、
おっさんは行きました!!
本州と九州との間にある関門海峡。この関門海峡の一番狭い地域は、およそ600メートルで、「早鞆の瀬(はやとものせ)」と呼ばれている。ここは、平安末期は、源平合戦と幕末には馬関戦争が起き、2度も歴史の舞台となっています。
※馬関とは下関の古い呼び名。
(壇ノ浦の闘い)
平安時代の末期、1185年に九州と本州の間の関門海峡で繰り広げられた源氏と平氏の海上での闘い。大将は源氏側の源義経と平氏側の平知盛(平清盛の息子)。
平家は船の扱いには一日の長があったため、序盤は優勢でしたが、途中で潮の流れが変わり、義経軍が有利になり平家軍は圧倒されていきます。
このとき、安徳天皇の祖母で平清盛の妻の二位尼は、安徳天皇を抱きかかえ、三種の神器のうちの天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)と八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)を身につけ入水します。そして安徳天皇はわずか8歳で死亡します。
また平家の武将たちの次々と戦死、あるいは捕まり平家軍大敗北となります。
※余談ですが、おばあさんとはいえ民間人の平氏が「天皇を抱えて心中する」!!
よく考えるととんでもないことです!!天皇と無理心中した民間人は日本史史上唯一このおばあさんではないでしょうか?
左が有名な 「義経八双飛び」
(「みもすそ川公園」名前の由来)
「みもすそ川公園」には川が流れてなく、海に面しているのに、なぜ公園の名前に川がついているのか疑問に思いませんか?
実は壇ノ浦の戦いで安徳天皇と一緒に海に身を投げた二位ノ尼(清盛の妻)が読んだ辞世の句「今ぞ知る みもすそ川の御ながれ 波の下にも都ありとは」に由来するのです。
みもすそ川は、平清盛と大きな関係がある伊勢神宮内宮の神域を流れる五十鈴川(いすずがわ)の別名です。
(幕末の馬関戦争)
関門海峡が歴史の舞台になる2度目は幕末。尊王攘夷政策を取った長州藩は1863年(文久3年)に馬関海峡を封鎖し、ここを通るアメリカ・フランス・オランダ艦船を砲撃。その報復として翌年1864年(元治元年)馬関海峡封鎖で経済的な打撃を受けていたイギリスが、前年砲撃を受けたアメリカ・フランス・オランダと協力し17隻で四か国連合艦隊を結成し馬関を攻め占領。
この時、長州藩は四か国から損害賠償請求を受けますが、長州藩の交渉窓口となった高杉晋作は、攘夷は幕府の命令で長州藩はそれに従っただけだから賠償責任先は幕府だと主張し、賠償をしていません。
そして馬関海峡の砲台を四国連合艦隊によって無力化されてしまった長州藩は、以後列強に対する武力での攘夷が不可能であることに気が付き、イギリスに接近して西洋の文明や技術の導入、軍備の増強にはかり討幕へと動き出します。
みもすそ川公園には、馬関戦争で使用した長州藩の5門の砲台のレプリカが設置されていて、そのうちの真ん中の1門は、100円硬貨を投入すると砲撃音と煙がでます。
日本史史上大きな節目となった戦いが行われた関門海峡、
前回紹介した関門人道トンネルの下関側から徒歩2分。
海も綺麗、ぜひ足を運びましょう。そしてこの海でかつて歴史的な戦いがあったんだなあと、しみじみしましょう!!
<<みもすそ川への行き方>>
下関市公式HP https://shimonoseki.travel/spot/detail.php?uid=197