陸軍中野学校跡地を訪れました。
(出会い)
おっさんは中学生の時に1冊の本を読みました。
それは加藤正雄さんが書いた「陸軍中野学校 秘密戦士の実態」。
父親の本棚にあるこの1冊の本、夏休みに一気に読み終えました。
陸軍中野学校の仕組み、生徒、暗号解読作業やサバイバル訓練などの授業風景、中国や東南アジアでの中野学校卒業生の活動内容などが詳細に書かれていて、ちょうどスパイにあこがれていた中学生のおっさんは(この年頃の少年はだいたいスパイに憧れますよね?)引き込まれるように読んだこと思い出します。
「陸軍中野学校」・・戦前、東京都中野区中野4丁目周辺に陸軍が作った、諜報活動やスパイなどの防諜活動を行うための軍事諜報員の養成機関。
元々現在の中野駅周辺では、大型軍事用飛行船「雄飛号」の製作、「軍用伝書鳩」の研究・開発が行われていました。やがて、情報戦略やスパイ活動も重要性が認識され、日中戦争の真っ最中の1939年(昭和14年)4月に、この地に陸軍中野学校が造られ、スパイ養成のため、情報収集、暗号解読、サバイバル方法、諜報活動、防諜活動といった様々な訓練が行われ、敗戦による廃校までに約2500人が卒業しました。
第1期生の入学生は、19名。生徒は、身分を明かすことも中野学校という校名を口にすることは禁じられ、校門には『陸軍省通信研究所』という表札が掲げられていました。中野学校の職員及び学生は、軍服を着用することは認められず、本名ではなく偽名を名乗っていたそうです。
(石碑の場所)
陸軍中野学校の石碑が警察病院付近にあるとは聞いていたものの、実際に現地を訪れ、その場所を探し当てるのには少々苦労しました。
警察病院の周囲を一周して、石碑があるという茂みを探したところ、ようやく、その場所がわかりました。
石碑は、警察病院の早稲田通りに面した早稲田大学近くの塀沿いの茂みの中にありました。
上の写真の右の建物が早稲田大学、左の茶色っぽい建物が警察病院。中野学校の石碑はこの両者の建物の間にあるコンクリートの塀の中、赤で囲んだところです。
探していた石碑が、警察病院内の敷地にあることが判明したので、警察病院の中に入って探しに行きました。
警察病院の早稲田通りに面したほうにある北門から入り、そこを右に進みます。
目印は突き当りにある「出口」の看板。
この看板の後ろの茂みに、石碑があります。
東京警察病院の敷地北西端には、茂みに隠れるようにして二つの石碑が建っています。その1つ、左側にあるのが、戦前この地に陸軍中野学校があったことを示す記念碑です。
かつて、本で読んだ中野学校の跡地の石碑を見つけたとき、長年音信不通だった初恋の人と再会したような気分になりました。
(どんな時代だったか)
中野学校が中野に造られた1939年(昭和14年)は、日中戦争の真っ最中。この年、
ノモンハン事件が起き、9月にはポーランドにドイツが侵攻し第二次世界大戦が勃発。二年後には太平洋戦争がはじまります。まさに軍国主義のど真ん中でした。
現在、敷地には東京警察病院、中野四季の森公園、中野セントラルパーク、明治大学、帝京平成大学、早稲田大学があります。
その役割を終えひっそりとたたずむ石碑。それを見たときおっさんは、身分を明かすことを許されずに活動をしていた名もなき英雄たちの彼らの事を考えこみました。
<<陸軍中野学校跡地石碑への行き方>>
JR中野駅より、警察病院を目指し、早稲田通りに出て北門から入り右へ。
突き当りには、「出口」の看板がある。の後ろの茂みにひっそりと石碑があります。
住所:東京都中野区中野4丁目22東京警察病院敷地内