板垣退助受難の地
昨日2019年(令和元年)7月4日(木)に参議院選挙の公示が行われ、
7月21日(日)の投開票に向けての選挙戦がスタートしました。
さて、今回は選挙に関する石碑を紹介。
「板垣死すとも自由は死せず」
日本史の教科書の明治初期の自由民権運動の項目で、必ず出てくる有名なセリフですね。
自由民権運動の遊説中に襲撃を受けたときに発した言葉と言われています。
岐阜県に、その言葉が発せられた地に石碑と銅像が立っています。
ちなみに、その場所は以前紹介した稲葉山城(岐阜城)のふもと、岐阜公園の中にあります。目立たないので見落とすかもしれません。
https://reiwa00502.hatenablog.com/entry/2019/06/15/002056
(板垣退助とは・・・)
年配の方々では赤茶色した「100円札の肖像画の人」として、なじみがあるかもしれません。
板垣退助は、自由民権運動の先駆者で自由党を結成し総理を務めました。
1882年(明治15年)4月に板垣退助は、岐阜県での遊説中に刺客によって襲撃され、
この言葉を発したと言われています。
おっさんも勘違いをしていたのですが、この時は板垣退助は刺されて重傷ですが、
命を落としていません。
彼は一命を取りとめ、この後も政治家として精力的に活動を行いました。
1898年(明治31年)には大隈重信とともに隈板内閣(わいはん ないかく)を作り
その内務大臣を務めます。
(板垣退助暗殺未遂事件=岐阜事件)
1882年(明治15年)4月6日、自由党の総理であった板垣退助は、岐阜・金華山麓の中教院での懇親会に出席し演説を行いました。
演説終了後に会場から宿舎に向かおうとしたときに、入口を出た瞬間に短刀を持った刺客(実は小学校の教員)に襲われ胸や手などを負傷しました。その時に、出血しながら「吾死スルトモ自由ハ死セン」と言い、それが 「板垣死すとも自由は死せず」となったと言われています。
【↑銅像の横の看板より】
(実は、おもろい人)
板垣退助は、なかなか面白い人のようでした。
<<ガマの油実験>>
少年時代、「ガマの油を塗り川に潜ると呼吸ができる」との言い伝えを信じ蛙を捕まえガマの油を作り、鏡川に潜ったが呼吸が出来ができず、インチキだと分かった。
<<お守りを便所に捨てる罰が当たるか実験>>
神社のお守りを便所に捨てて、本当に罰が当たるか試したが何も起こりませんでした。
<<「食い合わせ」を実際に体験>>
「うなぎと梅干」を一緒に食べると腹をこわすという食べ合わせが、本当かどうかの
実際にやってみたそうで、何も起こらなかったそうです。
・・・おっさんも似たようなことをやっていますか、もし板垣退助と同じ時代に生きて彼が近くにいたら、彼ととても気が合っていたと思います。
でも、おっさんは思うに、刺されて死ぬかもしれないときに「板垣死すとも自由は死せず」なんて言いますかねえ。普通は「痛い!死にたくない!」とか「早く医者を呼んでくれ!」とか言うのじゃないかなあ・・。
<<板垣退助遭難地への行き方>>
岐阜駅からバスで15分「岐阜公園歴史博物館前」下車 徒歩2分くらい