我が国初の海底電信線施設の地が九州にあった!!
今は携帯電話の普及でほぼ1人が1台、電話を持っていて通信通話が自由にできますが、わずか150年ほど前は、電話はおろか電信も普及・発達していませんでした。
口コミと飛脚、早馬などが情報の通信や伝達の主な手段でした。
我が国で初めて海底電信線が施設されたことを記念する石碑が、昨日に紹介した「関門海峡めかり駅」を出たすぐ前の広場、福岡県北九州市門司にありました。
★「関門海峡和布刈り駅」に関するブログはこちら
→https://reiwa00502.hatenablog.com/entry/2019/07/08/000605
碑文には次のように書かれています。
「わが国最初の海底電信線敷設の地
明治5年8月 この地にはじめて
九州門司雨ヶ窪と本州下関前田、約900メートルを結ぶ海底電信線が陸揚され
九州に電気通信の曙を迎えました
北九州地域の電話40万突破を記念してこの碑を建立します
昭和54年3月1日 日本電信電話公社」
注: 日本電信電話公社とは現在のNTTのことです。
(日本の電信の歴史)
モールスの電信機の発明は1837年、日本はまだ江戸時代で明治になる30年前でした。
日本で最初の電信業務が始まったのが1869年(明治2年)東京・横浜間です。
明治初期、日本の電信線は「東京・横浜間 」と「大阪・神戸間」のみで、外国からの電信、いわゆる電報は上海から長崎までは「大北電信会社」の海底電信線で送信し、長崎以外の国内各地宛てのものは「飛脚郵便」で送信していたそうです。ちなみに長崎から東京までは飛脚では、早くて3日もかかったそうです。
これでは情報の迅速性がよろしくないということで、当時の工部省が1871年(明治4年)に東京~長崎間、距離にして1430kmに電信線を敷く建設工事を始めました。
その後、電信線の建設が日本中で行われ1872年(明治5年)に関門海峡の海底電信線が施設され、翌1873年(明治6年)東京・長崎間の電信線が開通しました。
その最大の難関が「関門海峡をどのような方法でつなぐか」だったそうで、結局、海底にケーブルを敷設する方法に決まりました。
この電信線の開通で、長崎から東京へとモールス信号により様々な情報が送られたそうです。
日本最古となる電信網は明治8年ころにほぼ完成し世界につながりました。
当時はウラジオストック、上海から長崎に陸揚され、関門海峡を渡って東京から札幌まで敷設されました。
1874年(明治7年)に起きた佐賀の乱、1877年(明治10年)の西南戦争のときは、
現地と東京の連絡が電信で行われました。ただし、当時は性能が良くなく、電信の途中に中継所があり人間がそこで一度書き取って次の中継所に発信する方法を取っていたそうで、目的地に情報が到着するまで時間がかかったそうです。
なお、日本で最初に電話が開通したのは1889年(明治22年)とかなり遅い時期でした。この年は大日本帝国憲法ができた年でもあります。法律も情報網も整備されつつある年でした。
【石碑の後ろに見えるのは関門海峡】
その後の科学やテクノロジーの技術の進化はすさまじく、音声だけではなく、映像も、しかも瞬時に大量に送ることが可能で、今後はさらなる発展が予想されます。
日本では今年、高速・大容量・多様性・大量接続・低遅延がウリの5Gの試験運用も始まる見込みです。
“我が国初の海底電信線施設の地を示す石碑”は、その開祖・スタートの1つと言えるかもしれません。
一方、電信、いわゆる電報は、今では結婚式や葬式、試験の合否判定などにしか使われなくなったように思えます。
時代の移り変わりで、通信手段の役目を終え、セレモニー的な意味合いが残ったのかもしれません。
行き方
関門海峡めかり駅下車すぐ