かつて日本では正午に大砲を撃って
市民に時間を知らせる「ドン」というものがありました。
かつては生活するうえで欠かすことが出来なかった習慣が、時代の推移とともに
次第に廃れてしまって、その存在さえも忘れ去られようとしていることがあります。
今回紹介する正午の「ドン」もその1つです。
日本では、号砲を鳴らして人々に、正午になったことを伝えるということを、
明治から昭和初期まで全国的に行っていました。
それは、その音から「ドン」と呼ばれていました。
(久留米の「ドン」)
福岡県の中部にある久留米市。西鉄久留米駅から歩いて5分ほどの民間の方の住居の庭先に、この「ドン」の紀念碑があります。この紀念碑は1910年(明治43年)3月1日に建てられたものです。
碑には“「号砲台記念碑 陸軍中将 木村有恒書”と書かれています。
木村有恒氏は陸軍十八師団の初代団長です。
十八師団に関しては、前回のブログを参照してください。
https://reiwa00502.hatenablog.com/archive/2019/07/07
その横の看板には、“号砲台(ドン山)音でお昼をした明治”という川柳が書かれています。
(「ドンが鳴って、ヒュウが鳴って、お茶沸かせ」)
『久留米碑史』に「ドン」に関する記述があるので要約します。
「福岡県久留米市には、明治時代ごろから
“ドンが鳴って、ヒュウが鳴って、お茶沸かせ”という言葉がありました。
1907年(明治40年)に陸軍の十八師団が久留米市に設置されると、正午の合図として砲兵隊が号砲を鳴らし、その音が久留米の街に鳴りひびいていたのです。
これが「ドン」です。
発射場所は、この碑がある場所から少し西方の位置で、高い台場の上に砲が据えられていたそうです。
一方、「ヒュウ」は、現在ブリヂストンタイヤの工場がある周辺に当時あった、鐘ヶ渕紡績が正午に鳴らしていたサイレンの事で、その音が「ヒュウ」と鳴っていたそうです。
久留米市民は、この「ドン」と「ヒュウ」を耳にするとそれを合図に「お昼だ、お茶を沸かそう」となったそうです。
なお「ドン」は、1925年(大正14年)に軍縮により十八師団が解散されたことに伴い中止となり、鐘紡会社のサイレンに変わったそうです。」
(日本各地で「ドン」)
かつて日本では正午に空砲を撃ち音で時間を市民に知らせていた「ドン」は正式には「午砲(ごほう)」と呼ばれ1871年(明治4年)に午砲の制が制度化され、大都市を中心に午砲台が設置されました。
調べてみると東京では1871年(明治4年)に皇居内の旧本丸跡庭園に午砲台が設置され1929年(昭和4年)にサイレンに代わるまで使われています。
大阪城には、1870年(明治3年)ごろから1874年(明治7年)まで朝昼晩の3回、時報として空砲を鳴らしていましたが、それ以降は正午の時報として1日1回、号砲を鳴らしていました。これは「お城のドン」、「お昼のドン」として市民に親しまれていましたが、やがて中止されました。
福岡市では1888年(明治21年)に号砲会社が設立され7月22日の正午から大砲を
“ドン”と鳴らし、正午を知らせるようになりましたが、資金不足で3年ももたずに倒産します。
まだ、時計が高価で庶民の手に届かず普及していなかった時代に、音で時間を知らせる「ドン」という制度があったんですねえ。
皆さんのお住まいのところにもドンに関するものが、ひっそりと残っているかもしれませんよ・・・
★今回は民間の方の家にある物なので、「行き方」および「住所」は非公表とさせていただきます。