「生類憐みの令」の犬屋敷跡地に行ってきました
「今から冷静になって考えると実に馬鹿馬鹿しいと思うことが、その当時は平気で行われていた。」
「物事がだんだんエスカレートして歯止めが利かなくなった」
・・・こういうことありますよね。
江戸時代に「犬公方」とよばれていた5代将軍・徳川綱吉が出した「生類憐みの令」はその典型だと思います。
「生類憐みの令」と言えば、一番先に浮かぶのは「犬」への過剰なまでの保護です。
犬を大事にしたのは綱吉が戌年うまれということからでした。
(生類憐みの令を物語るもの)
現在の中野区役所前には犬のオブジェがあります。下の写真の赤で囲んだ部分です。
オブジェの犬は合計6匹です。真ん中の犬の上に子犬がいます!
この地には、江戸時代に「生類憐みの令」のために作られた犬の屋敷・「囲い(かこい)」があり、その広さは、東京ドーム20個分という巨大なもので、ここに8万匹の犬が飼われていました。8万匹ですよ。8万!!どこかの田舎の過疎の村の人口より多いんですよ!!
ここは、5つの大きな囲いがあり、それぞれの囲いには「犬小屋」「餌場」「日除け場」「子犬養育場」などが完備され、他にも、専門の医者や役人なども配備されていました。 犬用の食事は江戸の庶民の食事よりも高級だったと言います。
その費用は税金で賄われていたというので、まったく困ったもんです。
ちなみに、中野区役所がある中野4丁目一帯の「囲町」という旧名は、この犬囲いがあったことに由来します。
さらに、このような施設は、中野以外にも、大久保、四谷にもあったそうです。
この時期は、人間より犬が偉い時期になり、犬が通るときに「お犬様だ」と民衆が土下座することもあったそうです。まったくもって意味不明です。
(1つの法律ではない)
「生類憐みの令」は、1本の成文法ではなく、綱吉時代に行われた生類を憐れむことを目的とした様々な法令をまとめた総称で20年以上続きました。庶民にとっては変な法律ができて、しかも長年続いてたまったもんじゃないですよね。
(エスカレートしすぎ!!)
「生類憐みの令」は、生き物を大切にという趣旨から対象動物の範囲がどんどん大きくなり、ついには昆虫にまで広がり、内容も「おいおい、こんなのありかい??」と思うもののあります。
・犬を殺したら死罪
・蚊を叩いて殺してはいけない。殺したら島流しになる。
・馬のたてがみを切ったらいけない
・ウナギ・ドジョウの売買禁止
・魚、鳥、貝を食べる為に売り買いしてはいけない
・釣りをしてはいけない
・・・もう、何が何だか分からなくなります。普通の生活をするのにも支障が出てき
そうです。将軍が直々に決めたことだから、誰も止められなかったんでしょうか?
(社会福祉の充実の面も)
「生類憐れみの令」は“動物保護法”のイメージが強く、またエスカレートした内容も多いので、トンデモナイ法律のような気がしますが、実はいい面もあります。
「捨て子禁止」や「病人の保護」を命じた法令もありました。当時は口減らしのために「捨て子」をする風習がありましたが、それを禁じました。
(どんな時代か)
綱吉は、3代将軍家光の孫です。
綱吉の時代には、世の中も安定して平和になり、大阪や京都の上方を中心とした「元禄文化」が華開きました。経済的も好調でした。
一方で飢饉が起きたり、浅間山や富士山が爆発したり、地震が起き、
このような天変地異は、当時は「君主が悪いから」という風評がありました。
綱吉の時代は同時に、水戸黄門が活躍したり、赤穂浪士の討ち入りも行われています。(水戸黄門の徳川光圀は、生類憐れみの令に抗議して犬の毛皮を送ったという逸話があります。)
近くに公園があるため、家族連れがよく通り、時には小さな子供が無邪気にこの犬の像に座っているほほえましい光景が見られますが、江戸時代はお犬様の屋敷があったんですねですねえ。
<<中野「囲い」への行き方>>
JR中野駅から中野区役所方面へ 徒歩5分程度
住所:中野区中野4-8-1
(関連HP)
●中野区役所公式HP
●中野区町会連合会HP
●中野区公式観光サイト