日刊  おっさんの人生これから大逆転だぜえ!(日本史+史跡+旅情報)

普通の会社員の“おっさん”が、パワースポットや史跡、戦跡を巡った記録です。旅行に出かけるときの参考にしてね! 史跡や歴史から学び 運気を上げて、“人生大逆転”を狙います。

MENU

大宰府政庁跡

 

 


「遠の朝廷(とおのみかど)」と呼ばた九州・大宰府

f:id:reiwa00502:20190717161512p:plain

大宰府は、7世紀後半に九州の行政機関及び外交の要所として作られ、

広大な敷地にありました。 

 f:id:reiwa00502:20190717161426p:plain

 

 

(なぜ大宰府が造られたか) 

 九州は、朝鮮半島に近く、古くから大陸の政治・文化・宗教、技術者などが、

ここを通して日本に渡ってきました。

と同時に大和朝廷の外交・貿易・軍事上の極めて重要な地であったため、大和朝廷が九州北部に軍事・行政機関として大宰府を置くことになりました。

ここは奈良の平城京に似た都市を碁盤目状の道路で区画して建設するという都市整備がなされています。

 大宰府は、平安時代菅原道真が左遷されたり、941年の藤原純友の乱で攻められたり、南北朝時代南朝の本拠地になるなど歴史の舞台ともなりました。

 f:id:reiwa00502:20190717161730p:plain

今では当時の建物の姿はなく、広大な敷地に石碑が3つ立っています。

f:id:reiwa00502:20190717162519p:plain

大宰府政庁の周辺は、「連歌町」「朱雀」など朝廷を連想させる地名が残っています。

 

 大宰府太宰府2つの“だざいふ”)

 “だざいふ”の漢字表記は2つあります。「宰府」と「宰府」です。

太宰府市役所の公式HPには、この違いが書かれています。

それによりますと、

 古代における“だざいふ”の正式な表記は、現存する古代の印影が「宰之印」なので

このことから、「宰府」であったと考えられています。
 一方、奈良時代の文書には「宰府」と表記されているものがあります。それ以降「宰府」と表記する文書が多くなり、近世以降はほとんど「宰府」と表記するようになっているようです。

 一般には古代律令時代の役所、およびその遺跡に関する“だざいふ”は「宰府」、

中世以降の地名や天満宮については「宰府」と表記されています。

 そこで、現在、行政的な表記は「宰府政庁跡」「宰府市」というように明確に使い分けています。

 

(「令和」由来の地も、すぐ近く)

f:id:reiwa00502:20190717161822p:plain

 大宰府政庁跡の周辺にある坂本八幡宮の付近には、歌人大伴旅人の邸宅があったと言われ、ここで730年(天平2年)正月13日に「梅花の宴」が催され、梅花をもとに32首の和歌が詠まれました。

 梅花の宴の序文の一節が、5月1日からはじまった今の元号「令和」の由来になったと言われています。

その坂本八幡宮を令和最初の日に訪れた時のブログはこちら。

これは、おっさんの記念すべき第1回ブログです

 

 

<<大宰府政庁跡への行き方>>

西鉄大牟田都府楼前駅 徒歩10分、

住所:福岡県太宰府市観世音寺4-6-1

太宰府観光協会 公式HP

太宰府天満宮公式HP