「遠の朝廷(とおのみかど)」と呼ばた九州・大宰府
大宰府は、7世紀後半に九州の行政機関及び外交の要所として作られ、
広大な敷地にありました。
(なぜ大宰府が造られたか)
九州は、朝鮮半島に近く、古くから大陸の政治・文化・宗教、技術者などが、
ここを通して日本に渡ってきました。
と同時に大和朝廷の外交・貿易・軍事上の極めて重要な地であったため、大和朝廷が九州北部に軍事・行政機関として大宰府を置くことになりました。
ここは奈良の平城京に似た都市を碁盤目状の道路で区画して建設するという都市整備がなされています。
大宰府は、平安時代に菅原道真が左遷されたり、941年の藤原純友の乱で攻められたり、南北朝時代は南朝の本拠地になるなど歴史の舞台ともなりました。
今では当時の建物の姿はなく、広大な敷地に石碑が3つ立っています。
大宰府政庁の周辺は、「連歌町」「朱雀」など朝廷を連想させる地名が残っています。
“だざいふ”の漢字表記は2つあります。「大宰府」と「太宰府」です。
太宰府市役所の公式HPには、この違いが書かれています。
それによりますと、
古代における“だざいふ”の正式な表記は、現存する古代の印影が「大宰之印」なので
このことから、「大宰府」であったと考えられています。
一方、奈良時代の文書には「太宰府」と表記されているものがあります。それ以降「太宰府」と表記する文書が多くなり、近世以降はほとんど「太宰府」と表記するようになっているようです。
一般には古代律令時代の役所、およびその遺跡に関する“だざいふ”は「大宰府」、
中世以降の地名や天満宮については「太宰府」と表記されています。
そこで、現在、行政的な表記は「大宰府政庁跡」「太宰府市」というように明確に使い分けています。
(「令和」由来の地も、すぐ近く)
大宰府政庁跡の周辺にある坂本八幡宮の付近には、歌人・大伴旅人の邸宅があったと言われ、ここで730年(天平2年)正月13日に「梅花の宴」が催され、梅花をもとに32首の和歌が詠まれました。
梅花の宴の序文の一節が、5月1日からはじまった今の元号「令和」の由来になったと言われています。
その坂本八幡宮を令和最初の日に訪れた時のブログはこちら。
これは、おっさんの記念すべき第1回ブログです↓
<<大宰府政庁跡への行き方>>
●太宰府天満宮公式HP