下富野天疫神社
福岡県北九州市小倉にある下富野天疫神社(しもとみの てんえき じんじゃ)。
。かつて城下町かつ商業都市、明治以降は陸軍の軍都として栄えた地です。
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小倉には、1908年(明治41年)に師範学校が開校しています。
その師範学校の道を挟んだ向かい側にあるのが、下富野天疫神社(しもとみのてんえき じんじゃ)です。
神社境内に掲げられた掲示板によると、941年に創建されたということですから
1000年以上の歴史を持つ神社です。
昔は、現在のように気象学・農業技術が発達しておらず、日照り、大雨、台風などの自然災害が襲った場合に、農作物の収穫に大打撃を受け、同時に市民の食生活も厳しい状況を突きつけられた事が予想されます。
この神社には“天疫”と名がついたことから、そのような天災や疫病が流行った時には
この神社で祈祷が行われたと想像されます。
この神社は、いわば、当時の付近住民にとっての生活のよりどころであり、同時に信仰の中心であったと思われます。
また、この神社には神輿もあることからお祭りなども開かれていた社交場でもあったそうです。
この神社を見ていくと色々な発見があります。
(百度石)
願い事を神様に願う「お百度参り」です。
この石を起点として本堂まで100回お参りします。
参拝者は、百度を踏む日数を決めてその間は、お参りをします。
そして、願いがかなったら、今度は、お礼として「千度参り」で返します。
この神社では、いったいどんな「お百度参り」があったんでしょうか?
(明治44年と刻まれた石)
鳥居の近くに「明治44年3月」と刻まれ石がありました。
明治44年は1911年です。
この年の3月には、京橋にカフェ第一号の「プランタン」が開店します。
当時の芸術家・文学者が集まる場所としてにぎわいを見せたそうです。
同時に、丸の内には日本最初の様式劇場の「帝国劇場」も開場しています。
そして11月には、日本橋が現在の石橋になりました。
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(手洗い場)
手を清める手洗い場の側面には「皇紀2601年」と彫られています。
皇紀2601年は、昭和16年(1941年)で、日中戦争の真っ最中。
この年の12月8日には、太平洋戦争が勃発します。軍国主義の色が強くなっていく時代です。
この神社で「武運長久」や戦勝祈願が行われたと思います。
行き方 JR小倉駅から徒歩20分
住所:福岡県北九州市下富野1-10-22