今日は2019年(令和元年)8月9日(金)です。
今日は、今から74年前の1945年(昭和20年)の8月9日を考えてみたいと思います。
この日は、3年8か月続いていた太平洋戦争の末期で、8月15日に終戦を迎える1週間前でした。時の内閣総理大臣は鈴木貫太郎でした。
この日、太平洋戦争を語るうえでの3つの重要な出来事が起きます。
- 0時、ソ連が日ソ中立条約を一方的に破って日本に宣戦を布告し、
3.午後11時50分、ポツダム宣言受諾に関して御前会議が開かれる。
ソ連が条約を無視して不意打ちで攻め込んできて、
さらに長崎に原爆が落ちてしまうなど
日本にとっては色々なことが一度に起きた大変な夏の日でした。
(長崎原爆)
アメリカ軍が長崎市に原子爆弾を投下し、たった1発で長崎の街は壊滅的打撃を受け、約7万4千人が死亡。その後遺症で現在も苦しんでおられる方がいます。
これがいまのところ、戦争で実際に使用された最後の核兵器となっています。
広島も含めてアメリカが行った原爆の投下は、非戦闘員である民間人への殺戮行為であり、当時の国際法違反ですが、なんのお咎めもありません。。
【長崎原爆に関してのブログはここです。】
(日ソ中立条約)
日ソ中立条約は、太平洋戦争が始まる直前の1941年(昭和16年)の4月に、日本と
ソビエト(現在のロシア)との間で締結された相互不可侵を約束した中立条約です。
この条約は1946年4月25日までは有効で、「その満了の1年前までに両国のいずれかが廃棄を通告しない場合は、さらに次の5年間が自動的にこの条約が延長されるもの」と定められていました。
太平洋戦争での日本の敗色が濃厚になっていた1945年(昭和20年)4月5日に、ソ連政府は、翌年に期限満了となる同条約の期限を延長しないことを日本政府に通達していますが、この時点では1946年(昭和21年)4月25日までは、日ソ中立条約は生きていたわけです。
しかし、8月9日、その条約を無視してソ連は日本に宣戦を布告し、満州・朝鮮・樺太の国境を越え侵攻してきました。
立派な国際法違反ですが、今も不問とされています。
(ポツダム宣言受諾への御前会議)
この日の朝10時半、8月6日の広島への原爆投下と9日未明のソ連の宣戦布告を受け、
最高戦争指導者会議が開催されます。
そして、その会議の最中に、長崎へ2発目の原子爆弾投下の知らせが入ります。
戦争指導者会議では、ポツダム宣言受諾の条件をめぐり軍部などの意見が紛糾し 内容がさだまらず会議は長引きます。
その後、午後11時50分、昭和天皇が出席し御前会議が開かれます。そこで、ポツダム宣言受諾が正式に決まり、その受諾の条件に関して、連合国とのやりとりが始まります。そして、8月14日に受諾が正式に決まり、翌日15日の終戦となります。
(市民の生活)
このころの日本は、連日のように続く米軍の空襲で日本本土はほぼ焼け野原でした。
食料不足、物不足が続き、農業や工業の担い手の成年男子の多くは戦争にとられていました。
おっさんは当時の小学生(少国民と言っていました)や大人の方、あるいは戦線におられた方に、このころについて話を伺ったことがあります。
日本本土にいた人は、「とにかく食べ物がなくて草なども食べてしのいだ。」「連日の空襲で毎回防空壕にかけこむなど精神的に疲れていた。」という声をよく聞きました。
戦地におられた方は「食料も弾薬も武器がなく、突撃しか攻撃方法がなく これで勝つわけないと思った」「今年のお盆を迎えられるかなあ(まもなく戦死するのではないか)と毎日考えていた」という答えでした。
わずか74年前の8月9日は、日本の針路を決める要因となった大きな出来事が次々と起きた日でした。
皆さんも、
この当時の世界情勢、人々の暮らしぶりなどを調べ、
8月9日を考えてみてはいかがでしょうか?