【はじめに】
このブログには個人的なことは極力書くことを避けている、おっさんですが、
今回は特別に、我が母のことを書かせていただきます。
おっさんの母は今年90歳になりましたが健在です。
母は昭和4年、西暦で言うと1929年に福岡県の筑後市という地方都市で生まれました。
筑後市は、菅原道真の系列の水田天満宮が有名ですが、母は、水田天満宮の境内、天満宮から歩いて3分のところに生家があり、今は本家筋が家を継いでいます。
【水田天満宮について書いたブログはここ↓】
https://reiwa00502.hatenablog.com/entry/2019/08/17/000000
【「庶民の昭和史」そのものの「母が生きた時代」】
昭和12年、1937年に8回目の誕生日を迎えた翌日に中国、北京郊外の盧溝橋で日本軍と中国国民革命軍(当時の呼び名は「支那軍」)との衝突を知り、母は子供心に「戦争が起きる」と、とても怖くなったと当時を振り返ります。
11歳だった昭和15年は、皇紀2600年にあたる年で、母は紀元2600年記念の踊りを
踊ったそうです。
女学校時代は、太平洋戦争中にあたり、母は学徒動員で風船爆弾を作っていました。
母が住んでいた地区は、和傘が有名で和紙の産地なので、その和紙を使い
戦時中は風船爆弾を作ってたのです。
また、母の里は、小作人をたくさん抱えていた地主で、かつ
米屋も営んでいて、羽振りがよかったそうですが、
戦後の農地改革で土地の大部分を失い、生活が苦しくなったそうです。
終戦の年、昭和20年(1945年)になると米軍の空襲が日本各地で行われますが、
母の住んでいた筑後市にも空襲が来て1級上の女学校の先輩が機銃掃射で命を落としています。
そして終戦のとき。8月15日は、母は16歳の女学生。
終戦の日まで日本が戦争に負けるとは思わなかったそうです。
日本が外国、しかも鬼畜米英の支配下になると知り、年頃だった母は、これからどうなるかととても不安になったそうです。
その後、父と出会い結婚し私を産んで育ててくれた母親に、おっさんは感謝の気持ちを抱きつつも照れてしまい、「ありがとう」と言う気持ちを、なかなかうまく表現できませんでした。
【母の里に連れて墓参りも】
時は過ぎて今年の夏2019年8月、母は90回目の誕生日を迎えました。
子供達は独立し、夫も死亡した母は頭脳は明晰ですが歩行が困難になり、今は施設で
暮らしています。
おっさんが仕事の都合で近くに住んでいないので、そう頻繁に会うことも難しい状況で
親不孝をしています。
そこで、今年の夏は母を見舞い、かつ、母が生まれ育った家および母の代々のお墓に連れて行きました。
母が生まれた家には、94歳になる母の兄の奥さんが今も住んでいて、懐かしい話をして盛り上がりました。
母の墓は本家のすぐ近くにあります。
地主時代に自分の田んぼを1つつぶして作った墓で、今も田んぼのなかにあります。
昭和12年(1927年)に母の父と祖父が建てたそうです。
さて、母方の先祖代々の墓に着きましたが、母はもう高齢で満足に歩くことが出来ません。そこで、おっさんが母を車からお墓までおんぶして移動しました。
小さい頃何度も母におんぶしてもらったので、その恩返しです。
詩人・石川啄木は
「たはむれに母を背負いて そのあまり軽きに泣きて 三歩あゆまず」
と詩集「一握の砂」で詠んでいますが、おっさんの場合はそんなもんじゃありません!
母親はセミみたいに、おっさんにしがみつくから全体重をかけてきて苦しいし、
外は35度を越える猛暑。
日頃鍛えていない軟弱なおっさんには、なかなかきついものでした。
お墓には、母の父親、祖父、曽祖父・・・と名前が刻まれていました。
お墓か自分の車に戻るときも、おっさんは90歳の母をおんぶしました。
写真でもわかるように炎天下です。
ガガーリンは宇宙から地球を見たとき「地球は青かった」と言いましたが
おっさんは、こう言います「母は重かった」!!