真珠湾奇襲に参加したパイロットの鉢巻きを
触ることができる!!
おっさんが、手に持っているのは、1941年(昭和16年)12月8日に、日本軍によるハワイ真珠湾奇襲に参加した日本海軍の戦闘機乗り・安江巴海軍一等飛行兵が実際に使用したハチマキ。
ハチマキの右部分には、赤色で「十二月八日 布哇〔これで、ハワイ と読む〕空襲」 の文字が書かれていいます。当時真珠湾奇襲は、「布哇大空襲」と呼ばれていました。
その後も、安江一等飛行兵は、戦闘機乗りとして、ラバウルやポートダーウィン、コロンボに出撃し、昭和20年に戦死されています。
(庶民の戦争資料を集めた、白川村の戦争祈念館)
太平洋戦争で命を落とされた方々、被害にあわれた先輩方のことは決して忘れてはいけないと、強く胸に刻んでいるおっさんです。
さて、岐阜県の東白川村に非常に貴重な、市民の戦争資料を集め、しかも手に触ってみることが出来る、しかも入館無料という、すさまじく素晴らしい戦争資料館があると聞いたので、おっさんは出かけてきました。
場所は、岐阜県の東白川村。町の9割が山林という人口2300人の村。
この村に1995年(平成8年)、戦後50年を記念して出来た2階建ての小屋に、西南戦争から太平洋戦争までの間、村から従軍した人、および開拓団として満州に渡った人、
その地でその時代を生きた方などの、戦争にまつわる品々が保管されていました。
館内には、東白川村出身者の方々のほぼ全員の遺影が掲げられていました。
おっさんの後ろに見える日章旗は戦地で使用されたものです。
また、実際に使用された軍服の数々ももキチンと保管されています。
そのほか、銃弾、砲弾、軍刀、鉄兜、飛行帽、戦闘機用のメガネ、もありました。
全部実物です。
館内には「軍票」「戦時中の教科書」「戦前の雑誌」「戦地からの手紙」「手帳」
「召集令状」「日記」もありました。
そして、ココの展示品は、
ほとんどが実際に手に触ることが出来ます!!
(千人針)
千人針とは、千人の女性が、布に1人1つづつ赤い糸で丸い糸玉を縫い、合計1000個の糸玉を作ったものです。弾除けになるというおまじないみたいなもので、戦地の兵隊さんに送っていました。
千人針は、通常は女性1人につき1つを作成するのですが、寅年生まれの女性だけは、
その年の数だけ結び目を作成していました。これは「虎は千里を行き、千里を帰る』ということわざがあり、それにちなんで出征兵士の生還を祈るためでした。
また、同様の理由で、千人針には、虎の絵を刺繍で描くこともあり、この東白川村には、虎の絵を描いた実際の千人針もありました。↓
ちなみに、日本最初のカラー映画は「千人針」という映画で、日中戦争の真っ最中の
1937年(昭和12年)に出来ました。しかし、そのフィルムは、日本国内では戦争で消滅し、満州にあったものが、終戦間際の1945年(昭和20年)8月に満州に侵攻したソ連(現在のロシア)が接収していたことがわかりました。
デジタル復元版が制作され、国立近代化美術フィルムセンターで公開されています。
【日本初のカラー映画「千人針」についての説明のHPはココです】
https://www.nikkatsu.com/movie/13568.html
【召集令状を配った鞄(かばん)】
成人男子には召集令状が届けられたが、その召集令状を各家庭に配るために入れて、
運んでいた「鞄(かばん)」と箱もありました。
<<東白川村 平和祈念館への行き方>>
ここは、下呂駅からレンタカーで行くことをお勧めします。
毎日あいているわけではありませんので、行かれる前に開いている日を電話で聞いて
確認しておきましょう。
東白川村役場:電話0574-78-3111(内線121・村民課)
●東白川村の公式HP
ここの上から4つ目に、平和祈念館についての記述があります。
この祈念館は、山奥にあり交通の便もいいとはいえませんが、
貴重な品々が今も残されており手にとって見ることが出来ます。
しかも実際に使われていた本物です。
おっさんは、戦地から家族へ送られてきた手紙を読むなどして、数時間この場所にいました。
可能ならレンタカーを借りて足を運んでみてはいかがでしょうか?
ここには、日本史の教科書にはない、「生の戦争の歴史」に触れることが出来ます。