日刊  おっさんの人生これから大逆転だぜえ!(日本史+史跡+旅情報)

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9月2日は、ミズーリ号での降伏文書調印の日

太平洋戦争の終戦は8月15日ですが、日本軍と連合国との間で正式な降伏文書の調印が行われたのは、1945年(昭和20年)9月2日です。

 

 

1945年(昭和20年)9月2日、東京湾の横須賀沖に停泊していたアメリカの戦艦・ミズーリ号の船上で、太平洋戦争の降伏文書の調印式が行われました。

 

ミズーリ号が選らばれた理由として考えられること】

 調印式が行われた戦艦ミズーリ号は、当時の米国大統領のトルーマンの出身地ミズーリ州と同じ名前でした。マッカーサートルーマンに気を使ったのではないでしょうか?

 

この調印式では、以下の演出が行われました。 

【1、戦艦ミズーリの甲板に「星条旗」が2枚掲げられました】

1枚目は、1941年(昭和16年)開戦時の真珠湾攻撃を受けた時に、ワシントンのホワイトハウスに掲げられていた48星の「星条旗」です。首都・ワシントンから運び込んだそうです。

もう1枚は、1853年にペリー艦隊の旗艦である蒸気外輪フリゲート艦サスケハナ号が掲げていた31の星が描かれた「星条旗」です。

これは、ダグラス・マッカーサーの強い要望で保管されていたメリーランドのアナポリス海軍士官学校博物館から取り寄せ、額にいれたまま掲げました。

 

ちなみに式場には、日本や署名する他の連合国の国旗も一切掲げられませんでした。

 

 

 【2、ミズーリ号が停泊した位置】

マッカーサーは、ミズーリ号が停泊した場所は、1854年に日本とアメリカの最初の条約・日米和親条約が締結されたときに、船上で調印をしたアメリカ軍の「ポーハタン」号が停泊した時と、同じ緯度・経度の場所に停泊させました。

 

 なお、ミズーリ湾岸戦争にまで現役として働いていましたが、退役後は帝国海軍の奇襲を受けて真珠湾に沈没した戦艦アリゾナの隣に錨泊、展示されています。

 

【降伏文書調印】

 降伏文書に調印したのは、日本側が外相の重光葵、陸軍参謀総長梅津美治郎、連合国側は 、連合国最高司令官としてダグラス・マッカーサー、その後、アメリカ、中国、

イギリス、ソ連、オーストラリア、カナダ、フランス、オランダ、ニュージーランドの代表が署名しました。

この模様は、23分間に渡って、ミズーリ号から全世界にラジオで生中継されました。

 

【署名した5本のペン】

マッカーサーは5本のペンを取り出して交代で文章に調印し、最初の1本を、ジョナサン・ウェインライト中将に渡しました。2本目のペンは英国極東軍司令官だったアーサー・パーシバル中将に贈られました。

パーシバルは、日本軍によってのシンガポールが陥落したの時の責任者で、この時は、英国史上最大規模の13万人が降伏しました。

3本目はマッカーサーの母校であるウェストポイント陸軍士官学校、4本目はアナポリス海軍兵学校に贈り、最後の1本は妻ジェーン用にとしました。

 

【「降伏文書」は2種類ある!!】

 このとき調印された「降伏文書」は2通あり、1通は、ワシントンの国立公文書館、もう1通は東京・麻布台にある外交史料館にそれぞれ保管されています。

 しかし、日本が保存する「降伏文書」とアメリカが保存する「降伏文書」は異なるものです。そして、日本のは乱雑です。

実は、日本が所有する降伏文書は、カナダ代表のムーア・ゴスグローブが指定された

署名欄の場所を間違えて、次のフランス代表の欄に署名してしまったのです。

それ以後、フランス代表、オランダ代表も次の国の欄に書いたために、最後のニュージーランド代表は、書く場所がなくなり、欄外に署名しています。

そのため、なんとも不格好な「降伏文書」となりました。

 一方、この後に再度署名されたもう1通の降伏文書は、全員が指定された欄に書いていて綺麗な文書で、アメリカが保管しています。

 敗戦国日本は、この失敗作とも言える書き間違えた降伏文書を持たされたのです。

敗戦国とはいえ、ひどい扱いです。

 

ひどいと言えばもう1つ。 

著作権の関係で当時の調印式の写真を掲載できないのが残念ですが、この調印式の時、米兵の多くが船の上から足を投げだしたりして調印の様子を上から見下ろしています。

負けた国とはいえ日本に対しすごく失礼なふるまいです。

 

 

(その後)

ミズーリ号上での降伏文書の調印式終了後、9月3日にはフィリピンの日本軍が降伏調印、9月9日には朝鮮半島の日本軍が降伏調印、9月12日にはシンガポールの日本軍が降伏調印しています。

 

日本は史上初めて外国の支配下に置かれ7年後の1952年9月2日、サンフランシスコで

行われた講和条約の締結で、日本は正式に独立国家になります。

サンフランシスコ講和条約には、中国とソ連などが参加していなかったため、日本は

それらの国々とは別個に条約を交わさなければなりませんでした。

中国(中華人民共和国)とは1972年(昭和47年)に国交を回復し、日中共同宣言を

通じて正式に戦争状態を終わらせました。

一応、ソ連とは1956年(昭和31年)に日ソ共同宣言を交わしましたが、平和条約は結ばれておらず、北方領土問題は解決していません。

 

 

有史以来、日本が完全に他国との戦闘に敗れ、それを正式に承認した日、それが1945年(昭和20年)9月2日でした。

日本は、この日から初めて外国の占領下になります。