日刊  おっさんの人生これから大逆転だぜえ!(日本史+史跡+旅情報)

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日本一のフグの像・伊藤博文恋のきっかけ・馬関戦争の発端:山口県下関・亀山八幡宮

 


亀山八幡宮

山口県下関市の唐戸市場の道路の向かい側にそびえる、大きな御影石の鳥居がある神社です。

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亀山八幡宮は859年に作られた、歴史ある神社です。

この神社は、調べると色々なエピソードがあり、面白いのでその一部を紹介します。

 

【日本一の御影石の鳥居】

亀山神社の大きな鳥居は、1932年(昭和8年)にできた御影石の鳥居で、

高さ12,7m、横幅15,5m、柱の直径は1.2mです。

全て御影石でできた鳥居としては日本一の大きさだそうです。

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1932年は、満州国ができた年で日本が軍国主義に進んでいた時代です。

 

【看板の秘密】 

この鳥居の上にある看板に書かれている文字の『山』の文字の左下に何か白い物が見えると思います。

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「亀山宮」の「山」の左側に注目して下さい。この部分に白いものが見えるでしょう?これですよ。 これは野球のボール。

昭和30年代に近くにあるガソリンスタンドの従業員が休み時間に野球をしていて、その時打ったボールがすっぽりと「山」の文字の部分に挟まった

そうです。

それがきっかけで今では、地元の球児たちが必勝を祈願する場所になっているそうです。

 

さらに この神社の正面左、石塔の前には、山陽道の起点があります。

ここから瀬戸内海側の広島、尾道、岡山、明石を通り大阪、京都へと続いていました。江戸時代には、参勤交代で各地の大名たちが通り、また物資や文明・文化もここを通り、関西地区に伝えられました。

 

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【本殿】

鳥居をくぐり階段を上ると境内につきます。

目の目に本殿があります。

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境内からは関門海峡を眺めることができます。いい眺めです。

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【日本一のフグの像】

本殿の左に進むと、「日本一のフグの像」があります。

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下関はフグの街。

下関では「ふぐ」を「ふく」と呼び、幸福を呼び込むとして親しまれています。

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豊臣秀吉以来の河豚禁食令は、明治時代まで引き継がれていて、法律にも「河豚食ふ者は拘置科料に処す」と定められていました。

 

 1887年(明治20年)12月、山口出身で初代内閣総理大臣伊藤博文亀山八幡宮の近くにある宿・春帆楼に宿泊したときに、海が大シケで食事に出す魚がなく、しかたなく禁制だったフグが御膳に出ました。

当時フグは禁令でしたが、実は下関では人々が昔からフグを食べていました。

春帆楼の女将は、打ち首覚悟で禁制品のフグを総理大臣に出したわけです。

ところが、伊藤博文はフグがおいしかったので、 翌年1888年明治21年)、

全国に先駆け山口県でフグの食用を解禁しました。

やがて、日本中でフグを食べてもいいようになりました。

 1934年(昭和9年)には、関門ふく交友会の人々が境内表参道東側に「波のりふくの像」を建立しました。しかし、太平洋戦争末期の1944年(昭和19年)に、金属供出でなくなりました。

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 現在の像は1990年(平成元年)、ふく銅像再建推進委員会が、総経費2,000万円を

かけて46年ぶりに再建されました。

 

【砲台】

亀山八幡宮内には、幕末に起きた「馬関戦争」のきっかけにもなった亀山砲台がありました。

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1863年5月11日、関門海峡(当時は馬関海峡と呼んでいました)を通過していたアメリカ商船に対し、長州藩の久坂玄端の号令で、この亀山砲台から砲弾が放たれました。

それがきっかけでフランス・オランダ艦船に対しても同様に砲撃を加えました。

久坂玄瑞の墓は、以前ブログに書きましたが、京都にあります。

 

 この後、長州藩はイギリス、フランス、オランダ、アメリカのいわゆる四国連合艦隊と戦いますが、軍事力の差が明らかで、下関市彦島の砲台が破壊され、一部は占領されます。当時の占領の様子は写真に残っています。↓

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山口県下関市 みもすそ川公園にある看板】

 この敗戦をきっかけに長州藩は、攘夷が通用しないことを知り、逆に海外の文化技術を吸収し薩長同盟、倒幕へとつながって行きます。

 

★この時の砲台のレプリカは、近くの みもすそ川公園にあり、以前ブログに書いています。

【みもすさ川公園について書いたブログはここです】

 

伊藤博文恋愛の地】

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 長州藩出身で松下村塾門下生の伊藤博文が、欧州留学から帰国し、1864年には、上記のように米英仏蘭4国連合艦隊長州藩を攻撃する下関戦争が勃発。

その後、禁門の変江戸幕府から攻撃を受け、国内外の攻撃にさらされた長州藩は大損害を被りました。そして長州藩内部で派閥抗争が起こり、伊藤博文は命を狙われます。

刺客に追われ、亀山砲台があった亀山八幡宮にあった『お亀茶屋』に逃げて来ます。

その時、お茶屋でお茶子として働いていた木田梅子と知り合い、彼女を気に入ります。

当時、伊藤博文は結婚して家庭がありました。

その後、木田梅子は、父親の借金が原因で身売りされ、小梅と名乗り芸者見習いとなります。しかし、木田梅子はやがて伊藤に見受けされ、妊娠します。

そして伊藤に妻と離婚させて本妻におさまります。

略奪愛であり、できちゃった婚です。

 やがて伊藤博文が日本初の総理大臣となったのと同時に、彼女も37歳で日本初のファーストレディとなります。芸者からファーストレディという激動の人生ですね。

 

 

そのほか、床屋発祥の碑もあり、亀山八幡宮の境内を散策すると色々な歴史的なものを発見できます。

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<<亀山八幡宮への行き方>

 JR西日本下関駅からサンデン交通バスで唐戸下車、唐戸市場の向かい側。

住所:〒750-0004 山口県下関市中之町1-1  TEL:083-231-1323

営業時間:6:00~19:00 ※毎月1日と15日は5:00~19:00

 

亀山八幡宮の公式HP】