中学生のころ、日本短波放送、(その後の「ラジオたんぱ」、現在は、「ラジオNIKKEI」)を聞いていたら、「♪オタマジャクシはカエルの子」という歌のメロディに合わせて「新宿西口ヨドバシカメラ」というコマーシャルが流れ、それが、妙に耳について離れませんでした。
それから幾星霜。
仲がいい友人から、新宿には「ヨドバシカメラ」が由来の「淀橋」がある、と聞いたので一緒に行ってきました。
淀橋は、東京都新宿区と中野区の境を流れる神田川にかかる橋で青梅街道上にあります。
三代将軍・家光が鷹狩を行った際、ここの景色が京都の淀という場所に似ているので、「淀橋」とするよう命じたという説があります。
この橋は、江戸時代は「姿見ずの橋」と言われ明治になっても、婚礼行列では縁起を担いで、この橋は渡らなかったそうです。
橋ができた江戸時代、この周辺は農村で、地域を流れる神田川や妙正寺川には、周辺の田畑で収穫された米や麦など穀物類を製粉する水車小屋が各所に設置されていたそうです。
(三重丸に隠された歴史)
現在ある淀橋に刻まれている「三重丸」、これが気になったので新宿区役所の文化観光課に聞きました。
この「三重丸」は江戸時代にここあった「淀橋水車」を表しているとのことです。
この「淀橋水車」、調べてみると、凄い歴史的背景が浮かび上がってきました。
【淀橋の横にあった新宿区役所が作った案内板より】
江戸時代、「淀橋水車」では、周辺の水車と同様に、米や麦、蕎麦の粉を挽いていました。
しかし、1853年にペリーが浦賀へ来航すると状況は一変します。
江戸幕府は、国土防衛として大砲や鉄砲に使用する火薬の増産に取りかかります。
そして江戸にあるすべての水車小屋を穀物用から転用しこれで火薬調合して製造するように命じます。
しかし、安全対策などが不十分なままで水車小屋での火薬製造を命じたために、あちこちの水車小屋で爆発事故が相次いで死者がたくさん出たとのことです。
淀橋水車でも昼夜兼行で鉄砲や大砲用の火薬を作っていたそうで、近くの人々は、周辺で相次ぐ水車小屋での爆発を耳にし、このままでは淀橋水車でも爆発が起きると何度も火薬の製造を中止するよう請願していましたが、結局何の対策もなされませんでした。
そして、1854年、 淀橋水車は大爆発を起こします。
爆発の被害状況は中野村 名主 堀江家の『堀江家文書』に書かれています。
簡単に要約しますと、朝六時頃、轟音とともに大爆発して建物は粉々に飛び散り、
二百メートル四方の家々の戸は全壊。
しばらくして二度目の爆発も起き、土石を吹っ飛ばして辺りは暗闇になったそうです。
つぶれた家十七棟、つぶれ土蔵七棟、焼失七棟、破損百十一棟。怪我や火傷を負う者が多数出たそうです。
全くもって、凄まじいものです。
昭和初期までは、約200m離れたところに、この時飛んできた径61㎝・厚さ20㎝の石臼が残されていたそうです。
淀橋に刻まれた三重丸の印、この印の裏には、この地区に1674年に作られ、途中で火薬製造の役目にかわり1854年に大爆発して消滅した「淀橋水車」の歴史があります。
(大正14年に作られた橋を流用)
現在かかっている淀橋は、2005年(平成17年)に新しく作られたものですが、支柱には「大正14年」と刻まれた石が再利用されています。
「大正14年」は1925年。普通選挙が始まり、治安維持法も制定され、またNHKがラジオ放送を始めた年でもあります。そのような時期にこの橋はできました。
それから、軍国主義、空襲、敗戦、占領下、経済成長、平成・・・世の中の変化をこの橋は見続けてきました。
(淀橋周辺には、かつて「淀橋区」があった)
1932年(昭和7年)にはこの地区に淀橋区が誕生します。そして淀橋区は1947年(昭和22年)に四ツ谷区と牛込区と合併し新宿区へとなります。
調べてみると、新宿西口周辺には広大な淀橋上水場が、その反対側には、歓楽街があったそうです。
浄水場は1898年(明治31年)に通水しますが、1965年(昭和40年)に東村山浄水場にその役目を引継ぎ廃止されます。
その後、新宿の発達で都市化が進み、淀橋浄水場の広大な跡地には、新宿NSビルや
都庁などの高層ビルがいくつも作られるなど急速に都市化が進みました。
神田川にかかる淀橋にたたずみながら、さりげなく歩いているけども、かつてこの地で色々な歴史があったんだなと当たり前ながら、シミジミ感じたおっさんでした。
<<淀橋への行き方>>
丸の内線 中野坂上駅から徒歩4分程度
新宿区と中野区の間、青梅街道上
住所:東京都新宿区西新宿5丁目3