山口県下関市には、坂本龍馬と愛妻のお龍(おりょう)さんが暮らした住居跡地・
「本陣 伊藤邸跡」があります。
(伊藤家とは)
伊藤家は鎌倉時代から続く名家で、加藤清正の軍扇、豊臣秀吉の朱印状も残っているそうです。
伊藤助太夫は、当時、下関の豪商で、大名に宿舎を提供する東の本陣伊藤家の当主でした。また、幕末の攘夷の志士達に対し、金銭面を中心に様々な支援をしていました。
当時の伊藤邸は二千坪の大邸宅で、部屋数は二十を越え、畳は二百を越えていたといいます。
伊藤家は、豪商であるとともに同時に下関の知名氏でもあり、
江戸時代の朝鮮通信使に同行する宗対馬守の宿舎でもありました。
(龍馬と伊藤氏)
1865年に助太夫が下関で龍馬と知り合って以来、龍馬は下関に立ち寄るときは伊藤邸に宿泊していました。
伊藤は、龍馬の勧めで名前を「助太夫」から「九三」に改めたり、龍馬夫妻を歌会に誘うなど親密な間柄で、物心両面から龍馬を支援しました。
(龍馬とお龍が暮らした住居「自然堂」)
1867年、2月10日に龍馬は、お龍を連れて下関に入り、豪商・伊藤家の一室「自然堂」(じねんどう)を借りて生活の場とします。 「自然堂」は三畳板間の一室。
部屋の後方には、蘇鉄や松の繁った庭があったそうです。
龍馬は1867年2月27日から病気になり、3月下旬まで自然堂でお龍と過ごしたそうで、2ヵ月近くもお龍と共に一箇所に滞在したのは、龍馬の生涯でただ一度だということです。
上の写真の後方部に見える赤で囲んだ部分は、当時使用していた井戸です。
御覧のように、今は建物がなく、当時の面影を見せるのは、この井戸跡だけです。
龍馬は9月22日、下関を出て土佐へ向います。これがお龍との別れとなりました。
(お龍が龍馬の訃報を聞いた場所)
1867年11月15日に、龍馬は潜伏していた京都三条河原町の商家近江屋の2階で、襲撃され暗殺されます。享年33。 その訃報は、12月2日に下関のお龍のもとに届けられます。 その後、伊藤家の奥座敷で龍馬の法事が営まれました。
(明治天皇行在所)
1872年(明治5年)6月には、明治天皇の行幸が行われ、伊藤家が行在所(あんざいしょ:天皇が外遊した時の仮の御所)となりました。 お供は西郷隆盛などで、伊藤家での世話は、高杉晋作や久坂玄瑞、坂本龍馬を支援した豪商の白石正一郎が務めました。
同じ場所に「明治天皇西国行幸(西郷隆盛供奉)行在所手洗鉢」があります。
赤で囲んだ右が説明の看板、その下が手洗い鉢です。
当時の建物もなく、今は駐車場になって看板と当時の井戸しかありません。
<<本陣伊藤邸跡への行き方>>
・JR下関駅からバスで10分
・赤間神宮前下車から徒歩で3分
【坂本龍馬に関する今までのブログ記事】
●坂本龍馬の隠れ家と暗殺の地
●坂本龍馬のお墓