この前、何気なく東京駅から銀座に向かい歩いていたら
京橋近くに「江戸歌舞伎発祥の地」の大きな石碑がありました。
歌舞伎は1603年に、出雲阿国という女性が京都で歌舞伎踊りをしたのが始まりと言われ、それがやがて江戸を中心に「江戸歌舞伎」として定着し大人気となります。
江戸歌舞伎は、1624年(寛永元年)に初代中村勘三郎が日本橋と京橋の中間にある中橋南地で櫓(やぐら)を建て「猿若座」を起こしたことに始まります。
しかし、猿若座は、観客を呼びこむために櫓(やぐら)で叩く太鼓の音が、
江戸城の武士たちが登城するときの合図である櫓太鼓と似ていて混乱するという理由で、堺町(今の人形町)へと移転します。
(石碑)
石碑は1957年(昭和32年)に建立されました。
碑には、勘亭流による「江戸歌舞伎発祥の地」の文字と歌舞伎を演じる役者のレリーフがあります。
碑の中央上部には「隅切銀杏」紋があり、これは中村屋の家紋です。
「隅切銀杏」紋の真下にある家紋は「舞鶴」紋で、これが中村家の本来の家紋でしたが、当時の将軍の徳川綱吉の娘の名前が「鶴姫」だったため、「鶴」が被るのを避けて「舞鶴」紋から「隅切り銀杏」紋に変えたと言われています。
また、「舞鶴」紋の両脇にあるのが、「丸に三つ柏」紋です。
(歌舞伎が日本橋で大人気となった背景)
江戸時代の江戸は将軍のおひざ元で日本の中心でした。
当時の江戸の中心は「日本橋」でした。
日本橋は、五街道の出発地、さらに水運も発達していたため、陸路や海路で全国各地から人や物の交流・行き来があり、商業・文化の一大中心地として大発展を遂げました。
同様に、日本中からさまざまな文化・技術が結集しました。
江戸時代当時は、今と違い娯楽が少なく限られていたために、歌舞伎や人形浄瑠璃は
娯楽として大人気となりました。
江戸幕府により、歌舞伎や人形浄瑠璃などの上演が、現在の日本橋「人形町」界隈にある堺町、葦屋町、木挽町の3町に限られていましたため、「ここでしか見ることができない」ということで、この地区は賑わいを見せました。
特に江戸歌舞伎は、大衆文化として大人気となります。
中村座に続いて、市村座、森田座、山村座が登場し、江戸歌舞伎は急成長を遂げ発展し、市川団十郎、市川団蔵、岩井半四郎、尾上菊五郎 などのスターが登場します。
(歌舞伎に由来するもの)
歌舞伎から生まれ、今も伝わっているものがあります。
その1つが「幕ノ内弁当」。昼に客が食べる弁当ですが、これが幕間に食べるので「幕の内」弁当と呼ばれました。
歌舞伎十八番の演目である『助六』。これにちなんでつけられたのが「助六寿司」です。
得意のことは「十八番」と書いて「おはこ」と呼びますが、これも歌舞伎に由来します。「板につく」「千両役者」「捨て台詞」「花道」「幕引き」「見せ場」「黒幕」「裏方」・・・歌舞伎から生まれ日常生活で使う言葉は色々あります。
<<江戸歌舞伎発祥の地への行き方>>
下の写真の赤で囲んだ部分です。
住所:住所東京都中央区京橋3-4