おっさん、
帝国海軍「震洋」の出撃基地跡を訪れる
(千葉県館山市波左間)
(帝国海軍の特攻兵器「震洋」)
「震洋」は、日本海軍が太平洋戦争末期に開発した特攻兵器です。
べニア板で作った5メートルほどのモーターボートの先端部分に250キロの爆薬を装備し、乗組員が操縦して敵艦に体当たりして自爆するという死を覚悟した兵器です。
6000艇あまりが建造され、主に本土防衛のために広く配備されていました。
【注意:上記2枚の写真使用に関して】
1957年(昭和32年)1月1日以前に公表された写真は、旧著作権法の適用となり、
保護期間が満期終了し著作権は終了し自由使用です。
(一般社団法人日本書籍出版協会に確認済)
(館山波佐間に配備された第59震洋隊)
1945年(昭和20年)に入ると太平洋戦争での日本の敗戦の色が濃くなり、日本本土に上陸する米軍を迎え撃つ「本土決戦」の準備が進みます。
米軍の日本本土上陸前に撃墜するために、各海岸部の入り江の奥にある洞窟などから
震洋が出撃することが計画されました。
1945年(昭和20年)1月19日に「帝国陸軍作戦計画大綱」が出され「東京湾守備兵団作戦方針大綱」では、東京湾の入り口にあたる館山湾、平砂浦、千倉湾で日本本土に上陸してくる米軍に対して、邀撃体制を強化することが定められました。
その1つが千葉県館山市。
御覧のように地図で見るとその位置関係がよくわかります。
千葉県館山市波佐間には、真鍋康夫中尉を部隊長とする総勢176人からなる第59震洋隊の基地がありました。
様々な資料や文献によると館山市波佐間には、震洋を格納する壕や燃料、食糧などを備蓄する地下壕が作られ建設され、1人乗り震洋53隻と2人乗り震洋5隻が配備されていたそうです。
波左間基地の震洋を格納するための壕は7本以上、洲崎灯台近くの壕は4本以上あった
そうです。
ただし、この第59震洋隊は一度も出撃することなく、終戦をむかえたそうです。
海岸には震洋を出撃させるの時のコンクリート製スロープも建設され、その一部は70年以上たった今でも残っています。
ちょうど、おっさんが現地を訪れたときは満潮で沈んでいましたが、写真右に見える
石の塀みたいなものの左分に(おっさんが指さしている場所)に、震洋出撃時のスロープがありました。
2018年(平成30年)の6月には、地元館山でダイビングを営む方が、近くの海に潜り
海底に震洋のエンジンや爆薬が入っていたと思われる残骸を発見したことがニュースになっています。
【震洋の可能性も考えられる部品が海底から発見されたというNHKニュース】
(元乗組員の証言)
おっさんは、この震洋の存在は高校の時に本で読んで知っていました。そしてこの震洋に乗って訓練をしていた、いわゆる生き残りの方の手記も何冊か読みました。
震洋は、戦争中の物不足のため、ベニヤ板を貼り合わせただけの、もろい船体のため、
訓練中に船体に穴が開いたり、時には沈没することもあったそうです。
また、出撃しても、敵の戦艦が作る大きな波にのまれてしまい、敵艦にたどりつかなかったり、すぐに見つかって集中砲火を浴びていたそうです。
<<震洋出撃基地への行き方>>
レンタカーや車で向かったほうがいいです。
住所:千葉県館山市波左間
問い合わせ先:館山市観光協会 電話0470-22-2000(9:00ー17:00)