日刊  おっさんの人生これから大逆転だぜえ!(日本史+史跡+旅情報)

普通の会社員の“おっさん”が、パワースポットや史跡、戦跡を巡った記録です。旅行に出かけるときの参考にしてね! 史跡や歴史から学び 運気を上げて、“人生大逆転”を狙います。

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帝国海軍「震洋」出撃基地:千葉県勝浦鵜原

 


おっさん、

帝国海軍の「震洋」の基地・寄宿舎跡を訪れる

(千葉県勝浦市鵜原

 

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(帝国海軍の特攻兵器「震洋」) 

震洋」は、日本海軍が太平洋戦争末期に開発した特攻兵器です。 

べニア板で作った小型のモーターボートの先端部分に爆薬を装備し、乗組員が操縦して敵艦に体当たりして自爆するという兵器です。

終戦後、米軍が撮影した「震洋」の写真が残されています。

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 【注意:上記2枚の写真使用に関して】

1957年(昭和32年)1月1日以前に公表された写真は、旧著作権法の適用となり、

保護期間が満期終了し著作権は終了しています。

よって著作権の許諾を得ずに使用することが可能です。

(一般社団法人日本書籍出版協会に確認済)

 

 

震洋が生まれた背景)

 1945年(昭和20年)に入ると太平洋戦争での日本の敗戦の色が濃くなり、日本本土に上陸する米軍を迎え撃つ「本土決戦」の準備が進みます。

 そのため、震洋が上陸する米軍を撃墜するために海岸部の入り江の奥にある洞窟などから出撃することが計画され日本各地の海岸で基地や訓練所が作られました。

太平洋に面しリアス式海岸がある千葉県勝浦市鵜原地区も震洋の基地として選ばれました。

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(第55震洋隊)

 千葉県勝浦市鵜原には、太平洋戦争末期の1945年(昭和20年)に、横須賀海軍鎮守府第七特攻戦隊鵜原基地の司令部が置かれました。そして同年5月25日に、その傘下として第55震洋隊が設立されました。これを率いたのは神浦性太少尉でした。

鵜原地区の入り江部分には洞窟を利用したり穴を掘った震洋の格納庫が作られました。

その格納庫跡の洞窟は今も複数残っていましたが、その大部分が漁具の置き場となっていました。

中に入りましたが、建設から半世紀以上経過した今も頑丈でしっかりとした造りです。

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また、鵜原漁港の浜辺には格納されている震洋を出撃させるの時の滑走路の役目をする当時の線路が敷かれています。

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震洋隊員が常駐していた鵜原館)

震洋の乗組員や隊員などが寄宿舎にしていた宿が、今も残っています。

鵜原漁港の上にある、おっさんが指さしている建物が、「震洋」の兵士たちが常駐していた旅館の鵜原館(うのはらかん)です。

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 鵜原館は大正時代末期に造られた歴史ある旅館で、文豪たちから愛され、与謝野晶子などが利用しています。

 太平洋戦争中には、この旅館を「震洋」の発進基地にするために軍が接収して兵士を泊まらせていました。 そのときに駐在した兵士がもともと旅館にあった飲料用水の貯水槽を、部隊の飲料水確保のためにツルハシで掘り広げ大きくしました。

今旅館には、それを終戦後、利用した「洞窟風呂」があり、おっさんも入ってきました。

鵜原館】

住所:勝浦市鵜原998

電話:0470-76-0521

 

 

生還をする見込みがない自爆兵器の訓練をしていた若者たちは、

どのような思いで、鵜原の海を眺めていたのでしょうか・・・。

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