11月18日は1901年(明治34年)に
八幡製鉄所が営業を開始した日です!!
(日本の近代化をけん引した八幡製鉄所)
八幡製鉄所は、社会の授業で必ず出てくる、日本の重工業化・近代化を押しし進めた
大きな原動力の1つです。
日清戦争に勝利し、当時の国家予算をしのぐ賠償金を手にした日本は近代化をさらに進めるために、重工業の分野に力を入れようと九州は福岡県の小さな漁村だった八幡村に、当時の最高技術を集めた最新式製鉄所の建設を計画しました。
(そうそうたるメンバーでの記念撮影)
下の写真は、完成の1年前の1900年(明治33年)、現役の内閣総理大臣の伊藤博文を招いた記念写真です。写真が小さくて恐縮ですが、この写真には、現役の総理大臣伊藤博文、第一次伊藤内閣で初代外務大臣になった伯爵・井上馨、当時の九州の石炭王の伊藤伝右衛門、九州の大財閥・麻生財閥のドン・麻生太吉(自民党の麻生太郎さんのひいお爺さん)、九州発祥の政治結社・玄洋社初代社長・平岡浩太郎など、そうそうたるメンバーがそろっています。
(1901年:明治34年11月18日作業開始)
1901年(明治34年)11月18日に、伊藤博文など政財界のトップを招き作業開始の式典を行いました。 この式典には出店や花相撲、仮装行列が行われるなど盛大なものだったそうです。
八幡製鉄所では、今でも1901年11月18日の開業を記念して毎年企業祭りを行って、施設の一部を開放しています。
(八幡が選ばれた理由)
八幡は九州の小さな漁村、八幡村でした。日本の命運をかけた当時の最先端の工場が、なぜ九州の八幡の地に出来たのでしょうか?
ここは八幡の地の利が関係しています。まず、海に近いので、港からの出し入れが便利です。
さらに近くには日本有数の筑豊炭田(石炭は製鉄の原料です)があり、また鹿児島本線もあるために、鉄道や水運で大量の石炭の輸送が可能でした。
また当時の八幡村の芳賀種義村長が、積み出し港となる若松築港会社社長・安川敬一郎、九州発祥の政治結社・玄洋社初代社長・平岡浩太郎、などと協力して地元への誘致活動を行い、住民を説得し用地買収を行い、また政治的に働きかけるなどをした結果、
誘致に成功しました。
その後、八幡は成長、発展を遂げます。
(B29の攻撃目標に)
太平洋戦争中には、八幡製鉄所は、日本の重工業の中心地ということでB29による
日本初空襲の時の攻撃目標になりました。下は、八幡空襲を報じた当時の米国の新聞です。八幡製鉄所を日本のピッツバーグと称しています。
B29日本本土初空襲の記事は下をクリックして御覧下さい👇
また、次の八幡空襲の時には襲来したB29に対し体当たりで撃墜しています👇
終戦の1週間前には八幡大空襲があり、壊滅的打撃を受けます。
(近代化遺産に)
戦後も八幡製鉄所は四大工業地帯の一角として日本の高度成長を牽引してきました。
そして2015年(平成27年)には、日本の産業の近代化に大きく貢献したということで、近代化遺産に選ばれました。
(消える「八幡製鉄所」の名称)
八幡製鉄所を運営する日本製鉄が、全国に16ある製鉄所や製造所を、2020年(令和2年)4月に6つの製鉄所体制に組織を再編すると発表しました。その結果、明治時代の官営製鉄所時代から長年使われてきた「八幡製鉄所」の呼び名が消え「九州製鉄所八幡地区」となり、120年近く親しまれた名称が消えました。
社会の教科書には必ず乗っていた八幡製鉄所がなくなるとは淋しいですねえ。
(今も残る創業当時の建物)
下の写真は、今も八幡に残る、創業当時の建物・東田第一高炉です。
その上には操業開始時の1901年にちなんで、「1901」の看板がかけられています。
●八幡製鉄所のHP
<<八幡製鉄所 東田第一高炉への行き方>>
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日本の近代化を作った八幡製鉄所、
その産声を挙げたのが11月18日です。