12月14日、京都の法住寺で義士祭が開かれていました
おっさんは、用があり京都に行き、三十三間堂に行きました。
そのとき三十三間堂の道を挟んだ向かい側にある法住寺を偶然通りかかったら、
義士祭が開かれていました。
この寺は、平安時代には後白河法皇の宮廷「法住寺殿」があり、後白河上皇崩御後は、法住寺は後白河上皇の御陵を守る寺となりました。
後白河天皇にゆかりが深いこの寺で、なぜ義士祭??
調べてみると、元禄の時代に、大石内蔵助が仇討ちに行く前に、この法住寺に大願成就の祈願をしたそうで、この寺には身代わり不動があるそうです。
さらに、四十七士の木像が安置されているそうです。
たまたま、とおりかかったおっさんも、これも何かの縁ということで寺に入り、義士祭を見てきました。
義士祭ですが、とにかく人が多すぎで前が見えず、声もよく聞こえず何をやっているかは、よくわかりませんでした。
ここは、こじんまりとした寺なので、こんなに人が多いと動くだけでも大変です。
(忠臣蔵)
江戸時代半ばの1701年に江戸城松の廊下で赤穂藩の浅野内匠頭が吉良上野介に切りかかり、浅野は即日に打ち首となりました。
「浅野は切腹、吉良は無罪」となったことに赤穂藩の藩士は不服とし、大石蔵之助を中心とした四十七士が吉良邸に討ち入りに入り吉良を殺害します。
そして四十七士は幕府に自首し、のちに切腹します。
この「主君の無念を晴らす」というストーリーが受けたのか、忠臣蔵は、歌舞伎などのストーリーになり大衆受けしました。
ただ、このストーリーはおっさん的には??なんです。
現代社会で言えば、会社の中で殺人未遂でしょ?浅野が起こした吉良への刃物を使った暴力でしょ?それが美談とは?うーん何なんでしょう??
吉良上野介がかなりの意地悪で、いや~な人だったんでしょうか。
それで我慢できずに刀を抜いたんでしょうが、よっぽどですよね。
(後白河天皇)
ここに御陵がある後白河天皇、この人は天皇→上皇→法皇となった人です。
第77代の天皇です。この天皇は動乱の中を生きた方で、保元の平治の乱に巻き込まれ、平清盛と対立し、木曽義仲に京を攻められたり、平氏の滅亡、源義経・源頼朝とかかわったり、激動を生きた方です。
というわけで、今回は三十三間堂の向かい側にある法住寺の紹介でした。
<<法住寺への行き方>>
三十三間堂の前にあります。
おっさんはJR京都駅から歩いて行きました。徒歩15分ほどでした。
【法住寺公式HP】