第3代の室町幕府の将軍になります。
金閣寺は本当に綺麗です。足利幕府の最盛期にふさわしいです。
足利義満は、初代室町将軍の足利尊氏の孫で、二代将軍足利義詮の次男です。
この足利義満は、金閣寺を建てた人、日明貿易で財をなした人、南北朝の統一を果たした人、そして花の御所と呼ばれる大邸宅を作り室町幕府が一番力があった時代の将軍として歴史の授業で習います。
この足利義満が1368年12月30日に11歳で征夷大将軍に任命され、室町幕府の3代将軍に
なります。
(天皇家を乗っとろうとした将軍)
色々な文献などを読むと、足利義満は天皇家を乗っとろうとした将軍ではないかと
思われます。
それでは、そのシナリオを見ていきましょう。
義満は室町将軍、そして朝廷では太政大臣となり地位を極めていきます。
また,明との貿易では勘合札に「日本国王」と記述していました。
これは当時の大帝国の明から「日本国王」のお墨付きをもらったことになります。
次に彼は、次男の義嗣を天皇の養子にさせ皇位に就けようと計画します。
そして、自分は天皇の父親=上皇として君臨しようと計画していたとされます。
つまり義満は自らは太上天皇となって、天皇家を足利家でのっとることを企んだとされます。
もし、コレが実現すれば、長男の義持は4代将軍、次男の義嗣は101代の天皇、
そして義満自身は将軍と天皇双方の父親でかつ上皇という史上最高の権力者に君臨することになります。
血筋を考えると足利義満は源氏の流れを汲み父方は清和天皇。母方は84代天皇の順徳天皇です。義満はこの順徳天皇の5世の孫です。そして当時の御円融天皇はイトコ。
これまでも天皇になるときは、天皇の遠い血筋の人を天皇に即位させたことがあるので義満の息子が天皇になるのもおかしくはありません。
この頃、宮中では、王朝は100代で新しい王朝に変わるという説が流れていました。
丁度、後小松天皇で100代目。この説を義満は利用し、皇位簒奪の流れを周知し合法化するために利用したと思われます。
(義満の計画達成寸前に謎の突然死)
義満は、後円融天皇のあとに、息子の後小松天皇を即位させ、傀儡とします。
そして後小松天皇を招き、15歳の息子義嗣を宮中で「立太子」の礼を行わせ元服させます。
これで義嗣は義嗣親王となり、皇位が継承出来るようになりました。
あとはこの義嗣が、後小松天皇から皇位を継承し天皇になるのを待つだけです。
乗っ取りの準備が整いました。
しかし、義満は義嗣立太子から10日後、発病し突然死します。
この突然死は朝廷の反対派による毒殺との見方が強いです。
その後、この計画は当然ながら流れてしまいます。
今まで天皇を名乗る人や、権力者として天皇に取って代わろうとした人、
新しく自分が天皇だと称した人はいました。
また、自分の娘を天皇の后にすることで、自分の孫を天皇にする人は、
しかし、「男系で天皇家を血筋ごと乗っとろうと動いた人」は、
足利義満だけしか思い浮かびません。
その彼が第3代将軍になったのが12月30日でした。
義満の天皇乗っ取り計画、調べてみると面白いです。
本当に将軍家と天皇家の合体を考えた人がいたんですねええ。