彼はその他、貧困にあえぐ人々の救済に尽力しています。
また土木技術も持っていて地方を巡っては、橋を架けたり、堤防を築いたりしながら人々に仏教を説く布教活動を続けていて、庶民にかなりの人気があったようです。
おっさんは、実際に大仏を見ましたが、とにかくデカい!!
1200年以上も昔、ブルドーザーもクレーンもない時代によく作ったものだなあと感心しました。
(東大寺大仏建立の背景)
この当時、朝廷は藤原氏が貴族の頂点に君臨していましたが、それに反発する貴族と
対立します。
729年には天武天皇の孫・長屋王が藤原氏から謀反の疑いをかけられ自殺に追いこまれる「長屋王の変」も起きます。740年には九州で藤原広嗣の乱も起きます。
また自然災害も襲ってきます。毎年のように干ばつや飢饉が起き凶作が続きます。734年には大きな地震も発生します。追い打ちをかけるように天然痘が大流行し人々がかなり亡くなっています。
このように社会不安にさらされる出来事が色々と起きて国内が大混乱をします。
このような時代背景の中に建立された奈良・東大寺の大仏。
聖武による国分寺の建立、東大寺大仏の造立には、何とか仏教の力でこうした社会不安を取り除き、国を安定させたいという聖武天皇の思い・願いがあったと推測されます。
聖武天皇は、743年に東大寺の大仏を建立することを考えます。
(行基人気で大仏建立寄付金を獲得)
しかし、大仏の造営には、莫大な費用がかかります。
のちに、当時の資料「東大寺要録」を元に行った試算では、延べ260万人が工事に関わり、現在の価格にすると約4500億円以上がかかったそうです。今でもこの金額は相当な額ですが、当時の朝廷にとってはもう天文学的な額だと思われます。
朝廷は、大仏建立のため全国の貴族や豪族、庶民に、「金品を寄付しなさい、金品がない無い者はその代わりに労働力を提供しなさい」と呼びかけました。
しかし、庶民は生きるのに精いっぱいの時代なので、そう簡単にお金は集まりません。
そこで朝廷は当時民衆の信頼支持を得ていた行基の存在を利用しようと考えます。740年に行基は東大寺の大仏建立の責任者になり、民衆に大仏建立の浄財の寄付を求めました。するとこれまでの彼の人徳からすぐに多くの寄付金が集まりました。
この行基の協力で、大仏造営という国家の一大事業は成功を収めます。
行基は745年に朝廷から仏教界における最高位である「大僧正」の位を日本で最初に贈られますが、752年の大仏開眼を見る事なく、3年前の749年2月2日、82歳で、この世を去ります。
752年、台座3メートルを含めた高さ18メートルの奈良の大仏が完成します。
(柱くぐり)
大仏殿の北東には穴が開いた柱があります。
これは大仏の鼻の穴と同じ大きさだそうです。
おっさんが観光に来た時には何人かが柱くぐりをしていました。
おっさんも若者に負けじとくぐろうと思いましたが、友人に止められました。残念!!
穴が開いている北東は陰陽道で言う「鬼門」。鬼が出入りする方角です。
そこで穴をあけることで邪気を逃す役割を果たしているということです。
(奈良の大仏年表)
743年、聖武天皇により造像が発願
745年、造像開始、行基大僧正になる
749年、行基没す
752年、開眼供養会。
東大寺の近くにはこんなのもあります。
【東大寺公式HP】
<<東大寺への行き方>>
近鉄奈良駅から徒歩約20分
東大寺は1998年(平成10年)12月に古都奈良の文化財の一部として、世界遺産に登録されています。