『我、神仏を尊んで、神仏に恃(たの)まず』…
八大神社で、そう決意した武蔵は、いよいよ吉岡一門との対決へと向かいます。
今回は、決闘の場・一条寺下り松(さがりまつ)です。
現在、その場所には、松がありますが、決闘当時の松ではありません。
【一条寺下り松での戦い】
1604年、現在の八大神社の境内地である一乗寺下り松(さがりまつ)にて、宮本武蔵と吉岡一門が決闘をしました。
1604年、夜明け前の一条寺下りの松に集まった吉岡一門。その大将は吉岡源次郎。
武蔵を待ち構える吉岡門弟は数百人。
室町時代に将軍の指南役も務めた京都の名門・吉岡道場にとっては、宮本武蔵が道場で門弟を破り、果し合いでは師範の吉岡清十郎を京都の蓮台野で倒し、さらに弟の伝七郎をも蓮華王院・三十三間堂で打ち負かした敵。
3度も武蔵に敗れたということは非常に耐えがたき屈辱であり、宮本武蔵は、何としても倒したい相手です。
そのため、なんとか武蔵を仕留めようと吉岡門弟は、弓矢や鉄砲を持った者も潜み、
武蔵の登場を待ち構えていました。
一方、武蔵は下り松を見渡せる場所にいて、吉岡門弟の状況を確認していました。
大勢の吉岡門弟が潜んでいることを知った武蔵は、大将の源次郎の居る場所に向けて走り抜け、源次郎を一気に斬りつけます。
大将を討ち取られた吉岡の門弟たちは、武蔵の不意の出現と瞬時による源次郎の殺害に大きく動揺します。そして統制が取れないまま、ばらばらに武蔵に向かっていきます。武蔵は相手を迎え撃ち、斬り続け、門弟たちの包囲網を突破して逃げ去り、難を逃れます。
こうして京都の名門吉岡一門は、武蔵に師範と大将を倒され、一門も打ち負かされてしまいます。
その後は、剣の道を捨て染物屋になったと言われます。
(交通の目印・一条寺下り松)
一条寺下り松。平安時代中期から南北朝時代頃まではここに一乗寺という天台宗の寺があり、それにちなんで地名が名付けられています。
この地は、京都から近江につながる交通の要衝で、目印として松の木が植え継がれてきました。
初代の松は枯れてしまい、現在の松は4代目だそうです。
なお、宮本武蔵の決闘の時(1604年)の松の一部は、八大神社の境内に保管されています。
(八大神社におさめられている決闘当時の松の木)
(一条寺下り松までは少し歩きます)
一条寺下がり松に行くには叡山鉄道一条寺駅から徒歩10分程度。
山に向かう住宅地の中、坂を上った進行方向右手にあります。
一条寺下り松は、今は、住宅地となり武蔵が決闘した400年前の1604年の面影は
全くありません。
ただ、松の木だけが、受け継がれてその場に残っているだけです。
【京都観光オフィシャルサイトの一条寺下り松】
<<一条寺下り松への行き方>>
叡山電鉄 一条寺駅下車10分程度
<<次回予告>>
吉岡一門に完勝した武蔵は、その後、京都に身を隠します。
次回は、武蔵がしばらく身を隠した観智院(かんちいん)です。
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