2月19日は「プロレスの日」です。
(由来)
2月19日が「プロレスの日」と言われるのは、1955 (昭和30)年、東京・蔵前国技館で、日本で初めてプロレスの本格的な国際試合が開催されたことにちなんでいます。
この日のメインカードは、力道山・木村組×シャープ兄弟でした。
力道山のパートナーの木村は、かつて全日本柔道選手権13連覇・15年間無敗だった柔道の鬼・木村政彦です。
対するシャープ兄弟は、カナダ人で、NWAというアメリカ最大のプロレス団体が認定する世界タッグチャンピオンでした。
現役の世界チャンピオンが来日したということで大いに沸きます。
2月19日に行われた試合は、ノンタイトル61分3本勝負で、1-1から3本目は時間切れ引き分けでした。
この19日の試合以降、シャープ兄弟は5回対戦し、世界王座を防衛し帰国しました。
19日の試合の模様は、開局したばかりのNHKと日本テレビが同時中継しました。
NHKと民放の同時生中継は、今でも非常に珍しい出来事です。
(街頭テレビに2万人)
まだこの頃は、テレビはサラリーマンの年収を超える非常に高価なもので、誰もが購入できるものではなく、大企業の重役クラスが持っている程度でした。
街には「街頭テレビ」と呼ばれるテレビを見せる場所があり、人々はプロレスの試合を一目見ようと、、街頭テレビに群がりました。
資料によると東京の新橋駅の西口広場に設置された街頭テレビには2万人の群衆が殺到したそうです。
敗戦からまだ10年。日本はポツダム宣言を受諾し歴史上初めて外国の占領下になりましたが、1952年(昭和27年)4月27日にサンフランシスコ平和条約が発効し、ようやく回復してきた、そんな時期でした。
プロレスで外国人レスラーをなぎ倒す力道山の雄姿は、敗戦・占領で打ちひしがれていた日本人に勇気を与え、各地で民衆がプロレスに熱狂します。
(力道山以前もプロレス団体はありました)
力道山は、相撲の関脇を廃業し、建設作業員を経て、プロレスラーとなり渡米。
米国でプロレスのノウハウを身に着け、帰国後は日本プロレス協会(JWA Japan Pro-Wrestling Alliance)を設立し、プロレスを広め定着させた人です。
力道山以前にも、プロレス団体は日本にはありましたし、日本人プロレスラーもいました。海外遠征や日本でのプロレス国際試合も行われています。
しかし、プロレスというジャンルを日本に確立した第一人者は、やはり力道山と言って間違いないと思います。
(プロレスの父と神様の墓参りはいかが?)
プロレスを日本に根付かせたのが力道山なら、ストロングスタイルを確立させ定着させたのがプロレスの神様「カールゴッチ」です。
このプロレスの父と神様の両方の墓が東京にありますし、距離的に近いので全部を1日で巡ることが十分可能です。是非いかが??
【力道山について調べたいならこの本がお勧め】
②プロレスの神様・カールゴッチのお墓
ストロングスタイルの象徴であり、プロレスの神様と言われたカールゴッチのお墓も
都内にあります。
【カールゴッチについて調べるならこの本がお勧め】
力道山が作った日本プロレスはその後、吉原さんの国際プロレス、ジャイアント馬場の全日本プロレス、アントニオ猪木の新日本プロレスの3つ別れます。
さらに分裂や独立を繰り返し、令和になった現在では
その数は50を超えています。
その原点ともいえる 初のプロレスの本格的国際試合が
開催されたのがプロレスの日・2月19日です。