平安時代の1053年3月4日、関白・藤原頼通が宇治の平等院鳳凰堂を完成させました。
宇治平等院鳳凰堂がある場所というと藤原氏のイメージがありますが、
最初は、嵯峨天皇の息子の源融(みなもとのとおる)がこの土地を手に入れて別荘を建てました。
そして、それを引き継いだのが藤原道長です。
関白だった藤原道長が別荘として所有し「宇治殿」と呼ばれていました。
道長の死後に息子の頼通が引継ぎ、手を加えて寺院になります。
これが平等院の始まりと言われています。
(栄華を極めた藤原道長)
鳳凰堂を完成させた藤原頼通のお父さんは藤原道長で、藤原氏が貴族として栄華を極めた頃の人です。
これまでも娘を天皇の妃にした人は蘇我氏などがいますが、自分の娘を3人以上も天皇に嫁がせたのは藤原道長が史上初です。
ちなみに、彰子(しょうし)は一条天皇、姸子(けんし)は三条天皇、
威子(いし)は後一条天皇、嬉子(きし)は御朱雀天皇にそれぞれ嫁いでいます。
そして、自分の娘が生んだ子どもを天皇にし、その子が小さいときは「摂政」、成人したら「関白」になることで長期間、政治の実権を握りました。
「摂政」「関白」の文字をそれぞれ取って「摂関政治」といいます。
道長が詠んだ有名な「この世をば 我が世とぞと思う望月の かけたることも なしと思えば」の歌は、3人目の威子が後一条天皇に嫁いだ1018年10月16日に祝う席で詠んだ一句です。
藤原道長の息子、頼通は1019年に関白になります。
この時、頼通にとって、「天皇たちは姉や妹の旦那=義理の兄弟」になります。自らは貴族として最高位の関白の位にあり、政治の実権を握り朝廷の実力者、そして義兄弟が天皇、甥も天皇」・・・権力者としては、もうたまりませんよね。
(鳳凰堂が建てられた時代背景)
鳳凰堂が完成する1年前、1052年は、末法元年と言われました。
当時は、末法思想というのが流行っていて、これは、「お釈迦様が亡くなって2千年が経った1052年からは、禍や天災や戦争などが起きる「末法の世」となってしまう」というものです。実際に、天災や飢饉、人災が起きたため人々は本当に末法になると不安になったそうです
その頃は、今以上に人々の間に仏教が浸透し心のよりどころになっていました。
貴族の中にも不安になる人が多くあらわれ、阿弥陀如堂の建設が相次ぎました。
時の権力者の藤原頼通も同様に心配していたため、1052年に阿弥陀如来を安置する阿弥陀堂の建立に着手します。
もう1つの時代背景として、おさえていきたいのは、このころ流行した「浄土信仰」です。
念仏を唱えて阿弥陀如来にすがり極楽浄土に生まれ変わることを願う進行で貴族や皇族を中心に広まりました。
そして1年後の1053年3月4日、平等院鳳凰堂と呼ばれる阿弥陀堂が完成します。
鳳凰堂は、正面から見ると左右の翼楼と後方に伸びた尾楼が、鳳凰が羽根を広げた姿に見える事から、その名がつきました。
鳳凰とは想像上の鳥で、この鳥が現れると世の中が平和になると信じられていたものです。
「末法思想」「鳳凰」「浄土信仰」・・・ 宇治平等院鳳凰堂にはこの3つが結びついています。
藤原一族の栄華を伝える、極楽浄土を再現した宇治平等院鳳凰堂は、世界遺産にも選ばれました。
(おっさんが感じた事)
おっさんは、小学校の時に、社会の教科書に載っていた平等院鳳凰堂の写真を見て「ああ綺麗だなあ」と感じました。そして大人になり実際に足を運びました。
実際に見ると綺麗なんですが、小さいんですよね。あれっ という感じで・・。
しかし、その豪華さから、いかにも平安時代に、貴族が作った国風文化、という感じがします。
落ち着いた雰囲気もいいです。
(10円玉の模様として有名)
宇治平等院鳳凰堂は、10円玉に刻まれていることでも有名です。
さらに1万円札には鳳凰が描かれています。
昔は80円切手にも描かれたことがあります。
なお、鳳凰堂の池に咲く蓮は、発掘調査で見つかった江戸時代の種を蒔いたものだそうです。
【宇治平等院鳳凰堂公式HP】
<<宇治平等院鳳凰堂への行き方>>
JR京都駅から宇治駅下車、徒歩10分
拝観料:大人:600円、中高生400円、小学生300円