日刊  おっさんの人生これから大逆転だぜえ!(日本史+史跡+旅情報)

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3月7日 推古天皇崩御す

 


  


3月7日は、西暦628年に、日本初の女性天皇推古天皇崩御した日です。

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推古天皇が在位した時期は、ちょうど日本が様々な改革を進め,

律令国家を目指していた時期でした。

推古天皇の甥の聖徳太子が摂政につきます。

 

(当時は一夫多妻や異母兄弟間の結婚が自由)

この時代は、一夫多妻は当たり前でした。

天皇でも豪族でも奥さんが複数いましたし、当然それぞれの奥さんに子供がいました。

また、同母兄弟以外の結婚は認められていました。

つまり母親が違えば、兄弟姉妹間でも結婚ができました。

ですから、人間関係が濃く、そして複雑でした。 

 

推古天皇の家系)

ここで推古天皇の家系を見てみます。

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手書きで恐縮ですが、家系図を見ながらこの複雑な関係を理解して下さい。

 

推古天皇の父親は第29代の天皇欽明天皇で、母親は蘇我稲目の娘、蘇我堅塩媛 (そが の きたしひめ)、この人は蘇我馬子の妹。

 

兄弟を見ると、推古天皇のお兄さんは第31代:用明天皇、第32代:崇峻天皇は異母弟。配偶者は、異母兄弟の第30代天皇敏達天皇です。

 

時の権力者・大臣の蘇我馬子は叔父さん、聖徳太子は兄・用明天皇の息子なので甥に

あたります。

 

先ほども述べましたが、

この時代は、たとえ兄弟であっても母親が違っていれば結婚できたので、推古天皇

まわりの人間関係はとても濃ゆいです。

 

今一度整理しますと・・・

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さらに、この時代周辺の歴代天皇を挙げますと以下のようになります。f:id:reiwa00502:20200229160150p:plain

当時の皇族には最有力豪族の蘇我氏の血が強く入り込んでいます。

 

もう少し詳しく見ると

欽明天皇の奥さんで用明天皇推古天皇の母親は、蘇我堅塩媛。

 推古天皇の異母弟の崇峻天皇の母親は、蘇我小姉君(蘇我堅塩媛の異母妹)、

奥さんは、蘇我馬子の娘の川上女。(蘇我蝦夷の異母妹)

 

聖徳太子の妻は蘇我馬子の娘の刀自古郎女。(蘇我蝦夷の同母妹、川上女の異母姉)

なんとまあ、複雑です。

 家系図をみながらゆっくり確認して下さい。

 

推古天皇の時代)

色々な本を読むと、推古天皇は甥で摂政の聖徳太子、叔父で大臣の蘇我馬子と協力して政治い、日本という国の改善を行っていたようです。

朝廷の政務を執っていたのは甥の聖徳太子でした。

 

ちなみに聖徳太子にも奥さんが複数いて、しかも皇族と豪族の両方から奥さんをもらっています。

蘇我馬子の娘で蘇我蝦夷の同母妹の刀自古郎女(とじこのいらつめ)と、推古天皇の娘・菟道貝蛸皇女(うじのかいたこのひめみこ)・・・という具合に、皇族と豪族の最高権力者双方から奥さんをもらっています。

しかしながら、どうも、この時代の女性の名前は読みにくいし、漢字が複雑な人が多いです。

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推古天皇の時代の603年には、家柄ではなく能力で雇用や昇進を決める「冠位十二階」を定められ、その翌年604年には、貴族や官僚の心構えを記述した「十七条憲法」を定められ、さらに607年には小野妹子を隋に派遣されます。

この時期は律令国家としての国造りを進めていきます。

また太子や馬子と共に仏教を広めることにも力をいれました。

 

しかし、622年、朝廷の政務を執っていた甥の聖徳太子が49歳で亡くなります。

5年後の626年には、叔父の蘇我馬子が死亡し、息子の蝦夷が大臣に任じられます。

そし2年後の628年3月7日、推古天皇が在位35年3ヶ月、75歳で小墾田宮にて崩御されます。

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3月7日は、日本初の女帝であり、日本を律令国家づくりを進めた時期の天皇でもある・推古天皇崩御した年です。

 

この時代の状況を知るための、ちょうどいい漫画があります。

山崎涼子さんの「日出国の天子」です。