3月10日は、東京大空襲が起きた日です。
太平洋戦争の末期1945年(昭和20年)の3月10日、日本の首都・東京は、
米軍により当時国際法で禁止されていた「非戦闘員である民間人殺戮」にあたる
無差別爆撃・東京大空襲を受けました。
3月10日午前0時直後から始まった空襲で、東京の街は焼け野原になり10万人以上が死亡。これは単独の,しかも1夜の空襲による世界史上最大規模の犠牲者数です。
前述のように、この東京大空襲は民間人の殺戮が目的であり、ハーグ陸戦条約3条違反の無差別攻撃です。
(計算された東京大空襲)
この空襲は実に計算されたものです。今回はそこを見ていきましょう。
(日本家屋の研究)
米軍は東京大空襲の計画段階で、江戸時代に起きた火事や1923年に起きた関東大震災で発生した火事の状況を調べ、その火元・火の燃え方や拡大の様子・風向き・延焼状況・被害の実態などを細かく分析しました。
そして木造住宅が密集する日本の大都市は大規模火災に対して非常に弱いことに注目し、「木造住宅をいかに効率よく燃やし焼き尽くすか」という攻撃に重点をおきます。
(焼夷弾の開発)
住宅が密集する日本の大都市をいかに効率的に焼き払うかを研究するために、ユタ州に日本式家屋が立ち並ぶ住宅地、通称「日本村」を造り、そこで焼夷弾の燃焼実験を行います。この実験で日本家屋を焼き払うに1番ふさわしい、延焼能力が抜群なM69焼夷弾のナパーム剤を使用した焼夷弾が生ます。
(3月10日が選ばれた理由)
本格的な東京大空襲がなぜ3月10日だったか、2つの理由が挙げられます。
一番効率よく空襲の成果が出るようにと米軍は日本の気候を完全に把握研究し、
3月10日が乾燥し風が強い日だとわかったので、その日を狙いました。
もう1つ、実は3月10日は陸軍記念日です。
陸軍記念日は、1905年(明治38年)に日露戦争で陸軍が奉天の戦いでロシア軍を破ったことにちなんでいます。
この当時、日本のすべての学校では、毎年陸軍記念日には行事を行っていました。
1945年(昭和20年)の3月10日も、例年同様に、記念式典があるため全国に疎開していた東京の子供たちも都内に戻っていました。そこを狙われました。
(迎え撃つ日本軍)
B29による東京大空襲には、日本軍も応戦しています。
B29が東京に接近しているのは電波探知機(レーダー)で把握し、高射砲や戦闘機による迎撃も行いました。しかし、高射砲はほとんどB29には命中せず、迎撃機はB29が飛ぶ高度まで行くことができないことが多い状況でした。
(初めての試み)
3月10日の東京大空襲には初めての試みがいくつかあります。
まず、民間人を本格的に狙った空襲。
これ以前の空襲のターゲットは、主に軍事施設でした。
爆弾の命中率を上げるための超低高度飛行、さらに夜間の爆撃、そして焼夷弾の使用という新しい戦術が本格的に導入されたのもこの空襲です。
そして3月10日の空襲では、初の試みと緻密に計算された計算を持ちに空襲が行われ、木造家屋が多く密集する住宅地や町工場を計算通り焼き払うことができました。
(毒ガスや細菌散布も予定されていた)
東京大空襲以降、連合軍は東京にマスタードガスなどの毒ガスを散布する研究、日本の農作物を枯らす薬品の散布、さらに日本国民用に炭そ菌をばらまく計画もありました。
結局、生物兵器も化学兵器も細菌兵器もその使用前に戦争が終わりましたが、もし徹底抗戦でそのまま戦争が継続していたらと思うとぞっとします。
【東京大空襲について書いた本】
国際法違反の民間人の大量無差別殺戮を行い
1夜にして10万人以上の命を奪った東京大空襲。
この日を忘れてはいけません。
なお、この東京大空襲を指揮したカーチス・ルメイは1964年(昭和39年)に日本の航空自衛隊の発展に大きく貢献したという理由で勲一等旭日大綬章をもらっています。
東京大空襲のことを思うと考えらえません。