3月16日 藤原頼通、摂政になる!
3月16日は、平安時代の1017年に、藤原頼通がわずか26歳で摂政になった日です。
藤原頼通は、藤原道長の息子で、父とともに藤原氏の貴族政治の全盛期を築いた
貴族です。
日本史の教科書に必ず出てくる人がいますが、今回紹介する藤原頼通もその1人、
平安時代の貴族政治、摂関政治、藤原氏の全盛期、宇治平等院鳳凰堂いうテーマで
必ず出てきます。
藤原頼通は、645年に起きた乙巳の変、大化の改新で活躍した藤原鎌足(中臣鎌子、のちの中臣鎌足、さらに天皇から藤原の性をいただき、藤原鎌足)を先祖とする名門
貴族です。
頼通は、当時の貴族の最高の地位にいた藤原道長の息子で、摂政になった時は26歳
でした。
2年後の1019年には28歳で関白に就任、以後半世紀関白を務め、父道長と共に藤原氏の全盛時代を築きました。
(この世をば・・)
1017年3月16日 藤原頼通が26歳で摂政になります。
1018年10月16日に妹の威子が、後一条天皇に嫁ぎます。
この段階で、頼通の3人の姉妹が天皇に嫁いだことになります。
藤原家は、もう絶頂期です。
この祝いの席で父・道長が「この世をば 我が世とぞと思う望月の かけたることも なしと思えば」という有名な歌を歌います。
そして、その翌年、1019年に、藤原頼通は貴族として最高位の関白になります。
その後、頼通の妹・嬉子も後朱雀天皇に嫁ぎます。
このように、一条天皇から後朱雀天皇まで、天皇の奥さんには藤原氏が強くからんで
きます。
最終的には、藤原頼道の姉や妹の合計4人が天皇に嫁ぎました。
整理しますと・・・
姉の、彰子(しょうし)は一条天皇に嫁ぎました。
妹の姸子(けんし)は三条天皇に嫁ぎます。
一条天皇と彰子のあいだに生まれた後一条天皇には、妹の威子(いし)、
後一条天皇の弟の後朱雀天皇には、妹の嬉子(きし)がそれぞれ嫁いでいます。
自分の娘を天皇に嫁がせるということは、天皇の親戚になることで朝廷内での自分の
発言力や地位を高めていきます。
藤原氏は、娘が産んだ皇太子を即位させ天皇が小さいときは「摂政」、成人したら
「関白」になることで長期間、天皇の補佐という名目で政治の実験を握りました。
「摂政」「関白」の文字をそれぞれ取って「摂関政治」といいます。
こうして天皇家と深い婚姻関係を結ぶことで藤原頼通は、一条天皇→三条天皇→後一条天皇→後朱雀天皇→後冷泉天皇の時代に勢力を保ちます。
現代に残る藤原氏の栄華の象徴が、頼通が造営した宇治平等院鳳凰堂です。
(藤原氏のかげり。。皇子が生れない!)
藤原頼道は、一条天皇のいとこ・降姫女(たかひめじょおう)を正室に迎えます。
そして娘・寛子が生まれ後冷泉天皇に嫁がせますが、大きな問題が浮上します。
御冷泉天皇に嫁いだ寛子が皇子に恵まれません。
天皇に嫁いだ娘が男子を産まないということは、すなわち自分の孫を天皇にできない=天皇との関係が薄くなる=朝廷での発言力や影響力が弱まるということにつながります。
また、この時期は日本国内も不安定な時期になります。
(相次ぐ戦乱~藤原頼通の時代)
藤原頼通が朝廷で勢力を誇っていた時期は、国内が不安定で大きな戦乱が何度か起きています。
1019年には、女真族の刀伊族が壱岐・対馬を襲い、さらに九州筑前まで攻めてきた刀伊の入寇が起きます。
(この壱岐と対馬は、地理的に朝鮮半島に近いために元寇の時なども、真っ先に襲撃されほとんど皆殺しにあいますねえ)
1028年には房総三カ国(上総国、下総国、安房国)で平忠常が反乱を起こし鎮圧に3年かかります
1051年には東北奥州で、奥州の有力豪族阿部氏と朝廷の清原氏との闘い・前九年の役が起きます。これは1062年まで続きます。
これらの戦いで十分な対応・手段を討つことが遅れたことも、藤原氏の反対勢力が色々難癖をつけてきたのは想像できます。
しだいに、朝廷内にあった反対勢力も台頭し、天皇家との血筋も薄くなり、藤原頼通以降は藤原氏の勢いは衰えていきます。
1074年、藤原頼通は当時としては、かなりの長生きである83歳で死亡します。
そして日本は次第に貴族政治から院制へとシフトしていきます。
3月16日は、藤原頼通が26歳で摂政になった日です。
【この時代について書かれた本】