593年4月10日、聖徳太子が第33代・推古天皇の摂政に就任しました。
法隆寺の広い境内にある夢殿。
飛鳥時代に斑鳩の宮にいた聖徳太子は、日本史上初の女性天皇である推古天皇の時代に、摂政としてなりました。
【推古天皇について書いたブログはここ】
聖徳太子は、仏教を日本に普及させようと尽力し、また日本を天皇中心の集権国家に
しよう取り組みました。
彼の功績で日本史の教科書に必ず出てくる出来事が4つあります。
(聖徳太子が生きた時代)
聖徳太子が生きた当時の動きをここで見てみます。
年表から見てわかるように、この時期はアジア、そして日本が大きく動いている時期です。
日本では、大陸から渡ってきた仏教の普及を進める蘇我氏と日本の神道を押し仏教普及には反対する物部氏が対立し、戦争が起き、物部氏が滅びます。
さらに、崇峻天皇が宮中で暗殺されるという事件も起きます。
推古天皇は日本史上初の女性天皇です。そして推古天皇の兄の息子、つまり甥の聖徳太子が天皇を補佐する摂政になります。
この時期の朝廷は、天皇が推古天皇、摂政が甥の聖徳太子、有力豪族で大臣(おおおみ)の蘇我馬子は、推古天皇の母方のおじさんで聖徳太子とも血縁関係があります。
聖徳太子には、奥さんが複数いました。
蘇我馬子の娘で蘇我蝦夷の同母妹の刀自古郎女(とじこのいらつめ)と、推古天皇の娘・菟道貝蛸皇女(うじのかいたこのひめみこ)です。
つまり、当時の皇族と豪族の最高権力者双方から奥さんをもらっていたのです。
(「海外に通用する日本」を目指す)
この時期、海外に目を向けると、中国に統一国家の隋が誕生します。
日本はその隋に、きちんとした国家として認めてもらう=隋と対等な国になることが
必要でした。
そのため聖徳太子は国造りを始めます。
そのため、まず仏教を普及させます。日本には神道がありましたが当時、仏教は隋をはじめとしたほとんど国で広まっていて、外国と交流や交易をする場合、日本もその流れに乗り遅れるわけにはいきませんでした。
さらに日本国内を安定させることが必要でした。
この時期は、まだ天皇の力が弱く豪族の争いが絶えませんでした。
勢力争いで紛争が絶えない野蛮な国というイメージを持たれないように聖徳太子は天皇中心の主権国家にして安定した国にしようと計画しました。
「豪族同士の勢力争いをやめ、天皇のもと政治を行いましょう」というものです。
聖徳太子は、603年に、家柄や身分ではなく能力で採用する冠位十二階、
翌604年には役人の心構えを記した十七条憲法を制定します。
そして607年、小野妹子を隋に派遣します。
この時、有名な、日本を「日出づるところの天子」と書き、隋を「日没するところの天子」と表現した文書を送ったために、隋の皇帝の煬帝(ようだい)が激怒します。
しかし結果的に、隋と国交を結ぶことができ、以後、遣隋使を通して、進んでいる中国・隋の文化・制度をとり入れ、天皇を中心とした中央集権国家体制の確立を進めていきます。同時に仏教や儒教も広めていきます。
(法隆寺)
西院伽藍は現存する世界最古の木造建築物群で、
1993年(平成5年)にはユネスコの世界遺産に登録されました。
近くには、聖徳太子の斑鳩の宮の跡で、奈良時代に造られた夢殿もあります。
夢殿はバランスが良く美しい建物です。
【法隆寺公式HP】
【この時代について書いた一番のお勧めの本】
アクセス:JR法隆寺駅から徒歩20分、バスで5分(法隆寺門前バス停下車)