京都修学旅行の定番、金閣寺。
この金閣の棟上げ式が
1397年4月16日に行われました。
(金閣寺の歴史)
金閣寺がある場所は、もともとは、鎌倉時代に藤原公経が西園寺を建立し、同時に山荘を営んでいました。
しかし、鎌倉幕府滅亡後に西園寺家が後醍醐天皇を暗殺しようとしたことが発覚したことから、土地と財産が没収されてしまい、それ以降この地は荒れ果てていました。
その土地を、室町幕府第3代将軍の足利義満が譲り受けて、北山殿と呼ばれる別荘にしました。
別荘とは言うもののその規模は御所に匹敵するもので、室町幕府の政治中枢のすべてが集約されていたといいます。
義満が亡くなったあとは、禅寺として開山しました。それが、現在の鹿苑寺です。
室町時代に京都の町を焼け野原にした応仁の乱では、金閣寺は西軍の陣がおかれましたが、攻撃を受け建物の多くが焼失しました。
その大規模な修復や再建は江戸時代に行われました。
しかし、戦後の1950年(昭和25年)に寺の僧が放火し、金閣寺は焼失します。
現在の金閣は、1956年(昭和30年)に再建したものです。
その後、金箔は張り替えられました。
金箔に包まれた荘厳な建物、しかも水に反映された姿も計算されていて、実に見応えがあります。
おっさんは金閣寺に何度も行き、金箔が張り替える前後の金閣を共に見ましたが、現在のきらびやかの金ピカは派手すぎて、昔の方がいいなあと感じました。
(天皇家を乗っとろうとした将軍:足利義満)
金閣寺を作った室町幕府の3代将軍・足利義満は、初代室町将軍の足利尊氏の孫で、
二代将軍足利義詮の次男です。
色々な文献などを読むと、足利義満は天皇家を乗っとろうとした将軍ではないかと
思われます。
それでは、そのシナリオを見ていきましょう。
【①大中国・明のお墨付きをもらう】
義満は室町将軍、そして朝廷では太政大臣となり地位を極めていきます。
また,明との貿易では勘合札に「日本国王」と記述していました。
これは当時の大帝国の明から「日本国王」のお墨付きをもらったことになります。
【②息子を天皇にする】
義満は、次男の義嗣を天皇の養子にさせ皇位に就けようと計画します。
そして、自分は天皇の父親=上皇として君臨しようと計画していたとされます。
つまり義満は自らは太上天皇となって、天皇家を足利家でのっとることを企んだとされます。
もし、コレが実現すれば、長男の義持は4代将軍、次男の義嗣は101代の天皇、
そして義満自身は将軍と天皇双方の父親でかつ上皇という史上最高の権力者に君臨することになります。
血筋を考えると足利義満は源氏の流れを汲み父方は清和天皇。母方は84代天皇の順徳天皇です。義満はこの順徳天皇の5世の孫です。そして当時の御円融天皇はイトコ。
これまでも天皇になるときは、天皇の遠い血筋の人を天皇に即位させたことがあるので義満の息子が天皇になるのもおかしくはありません。
【③王朝入れ替え説を利用する】
この頃、宮中では、王朝は100代で新しい王朝に変わるという説が流れていました。
丁度、後小松天皇で100代目。
ということで、義光はこの説を利用し、「新しい王朝が生まれる。それが足利家」ということを正当化し、皇位簒奪を画策したと思われます。
(義満の計画達成寸前に謎の突然死)
義満は、傀儡としていた後小松天皇のもと、15歳の息子義嗣を「立太子」の礼を行わせ元服させます。これで義嗣は義嗣親王となり、皇位が継承出来るようになりました。
あとはこの義嗣が、後小松天皇が、義嗣親王に皇位を継承し天皇になるのを待つだけです。
天皇家乗っ取りの準備が整いました。
しかし、義満は義嗣立太子から10日後、発病し突然死します。
この突然死は朝廷の反対派による毒殺との見方が強いです。
その後、この計画は当然ながら流れてしまいます。
今まで天皇を名乗る人や、権力者として天皇に取って代わろうとした人、
新しく自分が天皇だと称した人はいました。
また、自分の娘を天皇の后にすることで、自分の孫を天皇にする人は、
しかし、「男系で天皇家を血筋ごと乗っとろうと動いた人」は、
足利義満だけしか思い浮かびません。
<<足利義満が天皇になろうとしたという研究本>>
義満の天皇乗っ取り計画、調べてみると面白いです。
本当に将軍家と天皇家の合体を考えた人がいたんですねええ。
1994年(平成6年)12月、ユネスコ世界遺産に登録されました。
【金閣寺公式HP】
<<金閣寺の行き方>>
京都駅前からバスに乗り「金閣寺道」(40分以内でつきます)
バス料金は230円です