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4月18日 米軍機日本本土初空襲

4月18日は、第二次世界大戦中の1942年(昭和17年)に、アメリカ軍が日本本土を初めて空襲した日です。

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この日、アメリカ軍が太平洋上の航空母艦ホーネットからB-25双発爆撃機ミッチェル

16機を発進させ日本本土に対する初空襲を行いました。

攻撃を受けたのは、東京、横須賀、横浜、名古屋、神戸などです。

その部隊は爆撃機隊の指揮官であったジミー・ドーリットル中佐にちなみ、ドーリットル隊と名づけられました。

 

開戦からわずか4か月に起きた日本本土への直接攻撃となった空襲は、日本軍部に

大きな衝撃、心理的打撃を与えました。

日本本土を初空襲したB-25のうち15機は、空母には戻らず、日本列島を横切って

当時アメリカと同盟関係にあった中国大陸に不時着します。

残りの1機はソ連ウラジオストックに行きます。

中国についた、搭乗員のうち8名が日本軍の捕虜となりました。

 

(米軍機日本本土初空襲の背景)
日本軍は、1941年(昭和16年)12月8日の真珠湾攻撃以降、アジア、オセアニア各地でアメリカ軍をことごとく撃退していました。

アジアでは1月に米領マニラを、2月に英国領シンガポールを占領するなど日本軍の快進撃が続いていました。


また、アメリカの西海岸周辺でも、日本海軍の潜水艦を中心とする部隊が、航行中のアメリカのタンカーや貨物船を幾度となく撃沈し、あるいは浮上して艦船や石油施設への砲撃を行うなど、活発な作戦を行っていました。


攻勢を続ける日本軍に対しアメリカは防戦一方。

「このような敗戦ムードを何とかしよう」、「米国民の士気を高めよう」ということで、アメリ以下政府は日本の首都・東京を中心とする日本本土の空襲を計画します。


しかし、アメリカには、アメリカ大陸から広い太平洋を越えて日本本土まで飛ぶことが出きるような航続距離が長い飛行機は、当時はありませんでした。

そこでアメリカ軍は、爆撃機を積んだ空母を日本本土近海に接近させ、そこから爆撃機を出撃させ日本本土を空襲する方法を考えます。

 

(日本本土初空襲へ)
1942年(昭和17年)4月1日、16機のB-25を搭載した空母ホーネットおよび護衛の巡洋艦3隻、駆逐艦3隻が、アメリカ西海岸の都市・サンフランシスコを出撃します。

 

事前の計画では、4月18日午後に日本本土か500浬離れた太平洋上でB-25が空母から発進し、夜間に東京をはじめとして、名古屋、大阪、神戸を空襲し、空襲終了後は中国大陸の中国軍占領地域に到着するというものでした。

 

しかし、空母出撃予定日直前の4月18日深夜2時ごろ、エンタープライズは、日本軍特設監視艇「第二十三日東丸」に発見され、敵艦発見の無線を日本政府に打信されます。

つまり計画が日本に、ばれたのです。

 

米空母部隊は、日本軍に発見されたため、当初の夜間爆撃計画を変更し、予定より日本本土に遠い場所から、しかも7時間早い朝8時過ぎにB-25爆撃機を発艦させます。

 

空母ホーネットから出撃したドーリットル率いるB-25爆撃機16機が日本本土に到着したのは4月18日の正午。

この日は、東京はちょうど防空訓練の最中でした。

そのためドーリットル中佐の一番機が東京上空で爆弾を投下した時には、人々の多くは訓練だと勘違いしたそうです。

連戦連勝の日本軍、その日本にアメリカ軍の爆撃機が現れることなど、当時は誰も予想できなかったのです。

その後、爆撃隊は東京府東京市、神奈川県川崎市横須賀市、愛知県名古屋市兵庫県神戸市などの工業施設などを爆撃します。

空襲を終えた16機のB-25のうち、15機のB-25は日本本土を横切り中国大陸へ、もう1機はウラジオストクへ向かいました。
日本側の被害は死者87名、重傷者151名(うち後日死亡1名)です。


(迎撃態勢が不十分)
米軍による日本本土初空襲。

この不意打ちといえる空襲に対し、日本軍はどう迎え撃ったのか?
太平洋に配備していた日本軍特設監視艇「第二十三日東丸」からの無線で、米軍機が

日本本土に空襲に向かっていると知りながらも、迎撃態勢は十分とは言えませんでした。

 

軍でも民間人でも、まだ開戦から4か月、しかも連戦連勝中の日本本土にまさか米軍機が空襲に来るとは予想してなくて、B-25が空襲に来たことを理解するのに時間がかかりました。また敵機と判断できなかったことも多かったそうです。


敵機と判断し出撃したものの、日本軍の飛行機が、その速度に追いつくことができなかたっり、高射砲が当たらなかった例もあったそうです。
自国の軍機と勘違いしてB-25に手を振る民間人もいたといいます。

 

この日本本土初空襲の貴重な証言がありました。

NHKの戦争証言アーカイブス公式HPより】

国民学校1年生だった男性

 

国民学校4年生だった男性

  

国際法違反)
のちに1945年(昭和20年)3月10日の東京大空襲以降の日本本土空襲、および広島や長崎への原爆投下、という当時の国際法で禁止されていた、非戦闘員、民間人への殺戮行為をアメリカ軍は次々と行います。そしてその行為は戦勝国と言うことで全く不問とされます。
実は、この日本本土初空襲で、すでに、アメリカ軍は東京葛飾区にある水元国民学校を攻撃し、機銃掃射で生徒1人を銃撃し殺害していますし、同じく都内の中学生も焼夷弾で死亡しています。

 

(裁判)
日本本土を初空襲し、そのまま中国大陸に着陸した米兵のうち日本軍の占領区域に降りた8人は日本軍の捕虜になります。
1942年(昭和17年)8月28日に、上海市で行われた軍事裁判で8名全員が「人道に反する行為を犯した罪」により死刑が言い渡されます。

その後、減刑され、操縦士2名と銃手1名が処刑されます。

 

当時の様子は、1942年(昭和17年)10月28日に公開された、日本映画ニュース第125号で国民に紹介されました。

以下2つの写真は、当時のニュース映像です。

上海での軍事裁判にかけられた米軍捕虜たち

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日本軍の布告文
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(シャングリア)
「ドーリットル空襲」の成功は、すぐにアメリカ本国でも発表されましたが、その詳細は秘密でした。
しかし後にルーズベルト大統領が記者会見で「爆撃機の発進地はシャングリア」と答えています。このシャングリアは ハリウッド映画「失われた地平線」というハリウッド映画で出てきたヒマラヤ山脈にある伝説上の聖なる都で、場所を特定されないようこの都市の名前を出してゴマ化したわけです。

日本軍はそれにまんまと載せられ、シャングリアはどこかを地図で探したそうです。

 

(空襲後)
この日本本土初空襲に、開戦以来日本軍に敗退続きだったアメリカ国内は沸き立ちました。


不意を突かれた日本軍部は、帝都侵入を許し空襲を受けたことに対し、報復をします。
1942年(昭和17年)6月20日日本海軍の潜水艦「伊26」が、カナダのバンクーバー島太平洋岸にあるカナダ軍の無線羅針局を砲撃した。翌6月21日、日本海軍の潜水艦「伊25」が、オレゴン州アストリアにあるフォート・スティーブンス陸軍基地を砲撃します。

 

(米国本土唯一の空襲)

1942年(昭和17年)9月9日と29日には、伊25に搭載されている零式小型水上偵察機アメリカ西海岸のオレゴン州を2度、空襲します。

これはアメリカ本土に対する唯一の外国軍機による米本土空襲でした。

アメリカ政府は、国民に対する精神的ダメージを与えないために、厳重な報道管制を敷き、この空襲を極秘扱いにしました。

 

2度にわたるアメリカ本土空襲に参加したパイロットの藤田信雄飛曹長は、1962年(昭和37年)に、オレゴン州州ブルッキングス市から招待を受け渡米します。

ここで「アメリカの歴史上で唯一アメリカ本土を空襲した敵軍のパイロット」として

大歓迎を受け、同市の名誉市民の称号を贈られました。

 

【米軍の日本本土空襲について書いたブログはここ】

 

 

【日本初空襲について書かれたお勧めの本】

 

アメリカ本土を爆撃した唯一の藤田飛曹長について書いた本】

 

 

ということで、

4月18日は米軍機のよる

日本本土初空襲があった日です。

 

 

なお、外国の飛行機による日本本土初空襲はここです。


 

★今回このブログでは、日本映画からの写真を引用しています。

このニュースは公開から、70年が経過し映画の著作権が消滅しています。