新井白石の墓が、JR東中野駅から15分ほど歩いた東京中野区にありました。
新井白石。。。皆さん名前は聞いたことがあると思います。
新井白石の墓は、下の写真の、石で四角に囲んだ場所の中にあります。
奥さんの墓と並んでいますが、背が低い墓です。
一般的なお墓のイメージとは違います。
しゃがんで見ると・・
墓には「新井源公之墓」と彫られています。
新井白石・・・、名前は聞いたことがあると思いますが、いったい 何をした人なのか、見てみます。
(2代の将軍に仕える)
新井白石は、6代将軍・徳川家宣、7代将軍家継を補佐し、儒学の教えをもとに諸政策を推進し、正徳の治と呼ばれる政治を行った人です。
新井白石は、旗本の家に生まれ幼少から素晴らしく聡明でした。
1709年に家宣が将軍になると、幕臣として、間部詮房とともに家宣を補佐しました。
トータルで見ると、家宣と息子の家継の2代の将軍に7年間つかえました。
(正徳の治)
正徳の治、、では具体的に何をやったかというと
一言でいうと「五代将軍綱吉の政治を見直し様々な改革をした」です。
それでは具体的に見ていきます。
【1、生類憐みの令の廃止】
この「生類憐みの令」は徳川綱吉が作った「生き物を大事にしよう」という法律ですが、これがエスカレートして、無茶苦茶な内容になりました。
そこで、家綱の死後、すぐに廃止しました。
※生類憐みの令に関するブログ
【2:財政改革:正徳の貨幣改鋳】
綱吉の時代に、幕府は財政が苦しくなったために金銀貨の品質を落として数を増やすという政策をとっていました。
そのためインフレが起き物価が上昇していました。
そこで、白石は、インフレ対策として貨幣価値を慶長の時代に水準に戻そうと取り組みました。
その1つとして家康のときに作られた慶長金銀と同じ品質に戻す貨幣改鋳を行い金の量を従来のレベルに戻した正徳小判という小判をつくります。
これでインフレは脱却しましたが、逆にデフレになりました。
【3、勘定吟味役の復活】
綱吉の時代に廃止となった勘定吟味役(かんじょうぎんみやく)と呼ばれる会計監査役を復活させます。そして幕府の役人の汚職や不正を監視させ、年貢の量を増やしました。
【4:正徳新令(海舶互市新例)】
当時、幕府はオランダと清との貿易は、長崎で行っていました。
しかし貿易のバランスとしては輸入が多かったために、輸入品の支払いとなる金や銀が海外に流出してしいました。
白石は、これを防ごうと1715年に正徳新令(海舶互市新例)を出し、貿易額の制限を行います。
【5:朝鮮通信使の見直し】
江戸時代は、将軍が代わるたびに朝鮮から通信使が来日していました。
彼らは、対馬から江戸までの旅程で、総人数は1000人くらいです。
彼らに対し幕府は、徳川御三家並みに手厚く待遇をしていたため、膨大な接待の費用が掛かっていました。 そこで白石は、接待の簡素化をし、経費を削減しました。 また、それまで朝鮮の国書の中では、日本の将軍のことを「日本国大君」と記していましたが、表現を「日本国王」にし朝鮮国王と徳川将軍が対等となるようにしました。
※朝鮮通信使について書いたブログ
【6:閑院宮家の創設】
皇室には、血統が途絶えたときのために宮家というものがあります。当時の宮家は、伏見宮(ふしのみや)、有栖川宮(ありすがわのみや)、京極宮(きょうごくのみや)の三家です。しかし、この3つでは、もしものときに天皇家が断絶する心配がありました。
そこでもう1つ、閑院宮(かんいんのみや)という宮家を創設しました。
この戦略が本当に効果をあげ皇室の断絶を救います。
桃園天皇が、後継男子がいないままに崩御します。すると、閑院宮家の祐宮師仁王(さちのみや もろひとおう)が即位して光格天皇になり、天皇家が途絶えることを防ぎました。そして、この血統は現在の皇室にまで続いています。
さらに新井白石は、新井白石は、自身が儒学者ということで、学問を重視した文治主義をとります。その結果、寺子屋で読み書きなどでの教育が普及します。
しかし、新井白石が治めていた時代は7年ほどで終了し、その後は8代将軍の吉宗が現れ、享保の改革が始まります。
(「折たく柴の記」の作者)
新井白石は、自伝を書いています。「折たく柴の記」です。自身の生い立ち、将軍家に仕えた話などが書かれています。
江戸時代の幕府の様子などが記録されていて、なかなか興味深いです。
(新井白石のお墓がある髙德寺)
新井白石の墓があるのは、中野区の髙徳寺です。
白石が10代、30代のときにこの寺に寄宿したそうです。
新井白石の墓は、幕府の実権を握っていた人なのに意外なほどシンプルで素朴な造り
でした。
【髙徳寺の公式HP】
<<新井白石のお墓がある髙德寺へのアクセス>>
・東京メトロ東西線「落合」駅から徒歩5分
住所:中野区上高田1-2-9 髙德寺