終戦の1週間前、1945年(昭和20年)8月8日、日本有数の工業都市の福岡県・八幡は大空襲にあい、焼け野原、多くの犠牲者を出します。
その八幡大空襲の慰霊碑がJR八幡駅近くに建てられています。
(日本の重工業をけん引してきた八幡製鉄所)
日本の近代化をけん引してきた官営八幡製鉄所がありました。
【八幡製鉄所について書いたブログはここ】
日本の重工業の中心地であるため八幡製鉄所は、太平洋戦争中は米軍の攻撃目標に
なりました。
1944年(昭和19年)B29による日本本土初空襲も八幡製鉄所でした。
また、B29を体当たりで撃墜したのも八幡の空襲の時でした。
【体当たりでB29を撃墜したときのブログはここ】
(小伊藤山公園)
JR八幡駅徒歩5分の地に小伊藤山公園があります。
(小伊藤山防空壕)
この地一帯は、高さ50メートルほどの小高い山で小伊藤山と呼ばれ、その山の麓まで家屋が建ち並んでいたそうです。
太平洋戦中には、この小伊藤山を削り防空壕が築造されました。
1945年(昭和20年)年8月8日午前10時、米軍の空襲を受けます。
当時毎月8日は、大詔奉戴日でした。12月8日が太平洋戦争開戦の日にあたるため、毎月8日を、大詔奉戴日とし戦時体制への国民の結束をはかりました。
8月8日午前10時、B-29の大軍が八幡に来襲します。
空襲の目標は八幡製鉄所の従業員と家族が多く暮らす住宅街だったとされ、
大量の焼夷弾が雨・あられのように投下されます。
各地で瞬く間に火災が起こり、総て焼き尽くされ、市街地は壊滅的な被害を受けます。
約2500人が死傷し附近一帯は焼野原となりました。
空襲を避け学生、引率の先生、市民がこの山に造られた防空壕に避難しました。
しかし防空壕周辺は火煙や吹き込む煙に包まれます。
防空壕の中に煙が吹き込み、蒸し焼き状態となり、300人全員が窒息などで
死亡しました。
戦後、小伊藤山は崩されます。
そして1952年(昭和27年)に戦災復興区画整理事業により、この地を公園とし、戦災死者を追悼するために慰霊塔を建立しました。
【公園に設置されている看板】
<<小伊藤山公園への行き方>>
JR八幡駅から徒歩5分