年末になると必ず話題にあがるのが「忠臣蔵」。
その忠臣蔵で討たれた吉良上野介のお墓があるのが中野区上高田にある萬昌院功運寺。
万昌院功運寺は、もと千代田区永田町にありましたが、1913年(大正2年)現在の
中野区に移りました。
吉良家は、この寺を菩提寺としていました。
このお寺には、吉良家の14代当主義定(よしさだ)・15代当主義弥(よしみつ)・16代当主義冬(よしふゆ)・17代当主義央(よしなか)の4代の墓石・供養塔が建てられています。
一番右が討ち入りで殺害された吉良家17代当主、上野介の墓です。
(名門の家柄)
吉良家は、清和天皇、そして源氏の流れを受け継ぐ名門。鎌倉時代には、足利家から足利宗家継承権をもったまま分家した足利家支流で、「足利将軍家が途絶えた場合は吉良家から次の将軍を出す」と言われた程の名門の家柄。
江戸時代には儀式や典礼を司る役職の高家(こうけ)の筆頭として朝廷と幕府の間の諸儀式をつかさどっていました。
高家職は、幕府側の朝廷への使者として天皇に拝謁する機会があるため、高い官位を授けられていました。
吉良家の17代当主で忠臣蔵に討たれた吉良上野介義央は、江戸幕府で儀典礼法を主導し、朝廷外交の中心的役割を担っていました。
(忠臣蔵とは)
義央は、1701年3月14日に、江戸城中で勅使接待の事務執行中に赤穂藩主浅野内匠頭長矩に斬りつけられて負傷しました。
そして翌年の1702年12月15日に浅野内匠頭長矩の旧臣・大石内蔵助良雄ら赤穂浪士の襲撃を受け殺害されます。62歳でした。
吉良を討ったあと、赤穂浪士達は、その首を持って主君の浅野内匠頭の墓がある泉岳寺へと向います。
泉岳寺についた一行は亡き主君・浅野内匠頭の墓前に吉良の首を供え、一同焼香します。
吉良の首は、浅野長矩の墓前に捧げられた後、箱に詰められて泉岳寺に預けられ、吉良家へと送り届けられます。
(お墓の中になぜか四十七士の全名前が刻まれた石碑が)
お墓の左側には、四十七士の名前が刻まれた石碑があります。
しかし、彼らは、吉良上野介を殺害する目的で集団で屋敷に入り込み、計画通り殺害した人達で、いわば吉良側にとっては、「殺した連中」にあたるわけです。
その名前を刻んだ石碑を何故、被害者の吉良の墓の中に置くのかは理解できません。
(石碑にしゃがんで写真撮影をするおっさんが映っていますが、そこはお許しを!
このご時世、ちゃんとマスクをしていますよ!)
(悪いイメージ)
赤穂浪士の討ち入りは、当時の娯楽の「仮名手本忠臣蔵」に取り入れられ、主君の仇を討つというストーリーが受け大人気となります。
そのため、敵役の吉良上野介は悪役のイメージが定着します。
文献を見ると浅野内匠頭以外にも結構嫌がらせをしていたようで、悪い評判もありました。
その一方で、自分の領地では治水行事や新田開発、塩田開発などをしたとも言われています。
★功運寺では、吉良上野介の命日にあたる12月には吉良公慰霊法要が行われています。
【萬昌院功運寺 公式HP】
<<吉良上野介義央の墓:萬昌院功運寺への行き方>>
JR東中野駅徒歩12分
住所:東京都中野区上高田4-14-1 萬昌院功運寺