江戸時代末期の1863年、明治維新の5年前ですが、この年の5月10日に明治維新の大きなきっかけの1つになったともいえる出来事が起きています。
長州藩による外国船の打ち払いです。
(攘夷の中心:長州藩)
当時の日本は、長年続いた鎖国をやめ西洋諸国と貿易をしていました。
しかしその一方、日本国内では外国人排斥を目的とした攘夷運動も起きていました。
攘夷運動の中心となっていたのは長州藩でした。
長州藩は関門海峡に面しています。
関門海峡は、天皇の御所や朝廷がある京都や天下の台所と呼ばれ物流が集まる大阪に
つながる海運の要衝です。
同時にここには日本との貿易をする外国船も多く行き交っていました。
長州藩は攘夷運動の一環として関門海峡に面した下関の各地に砲台を整備します。
(火を噴いた亀山砲台)
現在、亀山八幡宮がある場所は幕末は亀山砲台がありました。
1863年 5月11日午前2時、久坂玄瑞の号令で亀山砲台に設置されていた大砲から
アメリカ商船への攻撃を合図する砲弾が発射されます。
これをきっかけに外国船への砲撃が始まります。
攻撃を受けたアメリカ商船は関門海峡外へと逃走します。その後、フランス・オランダ艦船に対しても同様に砲撃を加えました。
【亀山八幡宮にある亀山砲台跡の説明版】
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しかし、翌年8月にイギリス、フランス、オランダ、アメリカの四か国の艦隊が合計17隻で長州藩に報復を行い、下関市の一部と彦島の砲台を砲撃し占拠しました。
【みもすそ川にある案内板より】
この一連の流れを馬関戦争と言います。馬関とは関門海峡に面した下関の昔の呼び名です。
下関市にある関門海峡に面した みもすそ川公園には、馬関戦争で使用した長州藩の
5門の砲台のレプリカが設置されています。
真ん中の1門は、100円硬貨を投入すると砲撃音と煙がでます。
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(諸外国との交渉を担当したのが高杉晋作)
馬関戦争の時に長州藩から下関の防衛を任せられたのが、高杉晋作でした。
また、1864年8月に、イギリス、フランス、アメリカ、オランダの4か国連合艦隊が下関を砲撃し、砲台が占拠されたとき、外国勢との和議交渉の窓口を任されたのも高杉晋作で、当時24歳でした。
講和会議で連合国は「彦島の租借」を要求しますが、晋作は拒否し撤回させます。
また長州藩に損害賠償を請求しますが、晋作は、攘夷は幕府の命令であり
長州藩はそれに従っただけだから賠償責任は、幕府にあると主張し、賠償をしていません。
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萬骨塔は日中戦争の最中の1933年
(昭和8年)10月、長府藩士の桂弥一が、全国から石を集めてきて建てた供養塔です。お饅頭のような小山の周囲には、日本国中から集められた、勤皇に関する石が敷き詰められています。
その敷き詰められた石なかには前田砲台跡の石と中島名衛門の石があります。
前田砲台は、四か国連合に占拠された砲台です。
中島名衛門は、幕末の兵学者で馬関戦争で四か国連合艦隊と砲撃戦を交えた前田砲台などを指導して製造しました。
外国軍と長州藩との馬関戦争。この敗戦を通して外国との軍事力の圧倒的な差を知らされた長州藩は、攘夷が不可能だと感じます。
そしてイギリスに接近して西洋の文明や技術の導入、軍備の増強にはかり討幕へと動き出します。
そのきっかけとなったのが1863年の5月10日に亀山砲台から放たれた砲弾でした。