福岡県北九州市門司区にある 九州最古の洋式灯台の部埼灯台を見に行く途中に、
進行方向から向かって右手前方の海側に、海に向かって立っている白い像が見えました。
「こりゃなんだ?この人は誰だ?」と思い、近くに寄って見てみました。
その像の手には、たいまつを持っています。
像が大きいのと、おっさんが訪れた時が満潮で海の水が押し寄せてきて前から像を見ることができなかったため、後ろ姿の写真しか撮れませんでした。
これでは、大きさがわかりにくいので、おっさんが入った写真を付けます。
おっさんの身長は175センチです。
大きさわかりましたか??
この像の人は、清虚という僧です。
岩場に立ち海に向かって、たいまつを掲げている巨大な像で1973年(昭和47年)に建立されました。
(清虚とは?)
清虚は、江戸時代末期の1777年に大分県国見に生まれました。
若い頃に、村祭りの相撲に出たときに相手を死亡させてしまいます。これは事故でしたが、これを機会に、罪を償うために高野山へ向かいます。
その途中、下関に向かう船中で、清虚はある話を耳にします。
部埼灯台が建設される30年以上も前の事ですが、門司の部埼は、昔は、「狐埼」、「念仏埼」と呼ばれる浅瀬が多い航海の難所でした。
部埼沖では夜間、多くの船が難破や座礁してしまう事故が後を絶たず、多数の人や船荷が犠牲になっているということです。
この話を聞いた清虚は、夜間の海の海難事故を減らすには、目印となる灯りがあれば良いと考えます。
そして、下船してこの地で夜の航海の多くの人命を救うために火を焚き続けようと決意します。
1838年に、清虚は、この地を管轄していた小倉藩に許可をもらい、小庵を作って囲炉裏の火を焚き、船の安全を見守りました。
やがて夜間航海中にこの火を目印にして遭難を免れた船乗りたちから評判になり、部埼山に火焚場を造ることが計画されました。
しかし、完成間近の1850年に清空は亡くなりました。
清虚は、1838年から74歳で命を落とす1850年までの13年間、毎晩火を
ともし続けました。
(受け継がれた清虚の意志)
清虚の意志を受け継いだ、火焚場の火は1872年(明治5年)に部埼灯台ができるまでの21年間、地元の住民によって受け継がれ守り続けられました。
灯台後方の山頂付近にあった清虚の火焚場は 2008年(平成20年)、清虚が松明を灯した年から170周年を記念して、「僧清虚顕彰会」が復元しました。
火焚場へは部埼灯台から降りていく道があります。
清虚が守った部埼の海が見えます。
近くによると・・
こんな感じで毎晩火を焚いたのでしょうか。
【清虚の火焚き場がある、現存する九州最古の西洋式灯台:部埼灯台について書いたブログ】
清虚は日中に托鉢をし、一食分の米を残して、すべて薪代に充たそうです。
その姿に村人たちは、「一食(いちじき)坊主」と呼び敬い、火焚きを手伝うようになります。
【清虚について書いた門司区役所HP】
<<清虚像への行き方>>
遠いのでレンタカーで行きましょう。
住所:福岡県北九州市門司区大字白野江