5月20日は 626年に蘇我馬子が死亡した日です。
蘇我馬子は、飛鳥時代の有力豪族で、蘇我氏の全盛期を築きました。
蘇我馬子は572年、敏達天皇の時に父親の蘇我稲目のあとを継いで、天皇の補佐を
して政治を行う役目の大臣(おおおみ)の職に就きます。
以降、用明天皇、崇峻天皇、推古天皇の4代に仕え大臣の期間は半世紀以上、54年に
わたります。
その間ライバルの物部氏を滅亡させ、崇峻天皇を殺害し、また天皇家との血縁関係を
結び,そのかかわりを密にしたことで蘇我氏の全盛時代を築きます。
ちなみに蘇我馬子は推古天皇の叔父であり、また馬子の娘は、崇峻天皇の奥さんと聖徳太子の奥さんになります。 凄い血縁です。
邸宅に島を浮かべた池があったことから嶋大臣とも呼ばれました。
「邸宅に島を作る!」。なんと大きな邸宅でしょうか!!
(蘇我氏の時代)
仏教推進派の蘇我馬子は587年にライバルの神道派の物部氏を滅亡させ、朝廷での豪族としての権力を手に入れ、崇峻天皇を即位させます。
しかし591年、崇峻天皇が、自分の言うことを聞かなくなったために殺害します。
豪族とはいえ天皇を殺害ですよ!しかも崇峻天皇は自分の娘の旦那、つまり義理の息子です。それを殺害!これも凄い事です。
その後、593年に蘇我馬子は初の女帝となる推古天皇を即位させ、同時に聖徳太子が、摂政となります。
蘇我馬子は聖徳太子とともに政治を行い、仏教をすすめ、冠位十二階、十七条憲法と
いった新しい制度を定めます。
また、遣隋使を派遣して当時の先進国の隋の社会制度や学問、技術を積極的に導入します。
【聖徳太子の政治に関して書いたブログ記事はここです】
【十七条憲法について書いたブログはここです】
【初の女帝・推古天皇について書いたブログはここです】
蘇我馬子が全盛期を築いた勢力は息子の蝦夷、孫の入鹿へと受け継がれていきます。
626年5月20日、馬子は死去します。
その馬子の墓と言われるのが飛鳥にある石舞台古墳です。
おっさんは現地に行き、見てきましたが、とにかく大きい!!
規模の大きさと大きな石を運んだことから馬子の勢力の大きさが推測できます。
しかし、「古墳」というのになぜ土がかぶせられていないのか。
むき出しで我々が普通、イメージする古墳とは形が違うのか 気になりますよね。
これは蘇我氏が大化の改新で滅ぼされ、天皇に背いた逆賊ということで、見せしめの
ために、このような形になったそうです。
【石舞台古墳について書いたブログはここです】
<<蘇我馬子の時代を書いた素晴らしい漫画です。お勧めします>>
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・・と言うわけで5月20日は