東京にある明治神宮外苑のわきにひっそりとある1つの石。
「大日本帝国」の文字と菊の御門が刻まれています。
この石を掘り下げると 樺太(サハリン)の日露の歴史が見えてきます。
この建物を正面に見て左側に,繁みの中に1つの石があります。
これは、1926年(大正最後の年となる大正15年)に樺太庁より寄贈された
樺太国境画定標石の「天第四號」のレプリカです。
1905年(明治38年)日露戦争に勝利した日本は、ポーツマス条約で樺太の北緯50度以南
を日本の領土とすることになりました。
そのため1906年(明治39年)から1908年(明治40年)にかけて樺太(サハリン)で
日露両国の国境を定める作業が行なわれます。
そして、1908年(明治40年)9月に4基の天測境界標を置き国境を確定します。
日本が国境標石を設置したのは、歴史上この時だけです。
標石は立方体。標石の一面には菊の紋章と「大日本帝国」の文字、その裏面にはロシア帝国の双頭鷲紋章とキリル文字でロシア(РОССИЯ)と刻まれています。
(わずか80年で領有が何度も変わった樺太(サハリン))
樺太(サハリン)は、日本とロシアの間で領有者が何度も変わった島です。
●江戸時代末期に、江戸幕府と帝政ロシアの間で結ばれた日露和親条約で、日ロの所有は定めず、これまでロシア人がいなかったこの地にロシア人が入ってきます。
●1867年には樺太雑居条約が結ばれ、樺太(サハリン)が日露雑居地になります。
●1875年(明治8年)5月7日 - 樺太・千島交換条約締結により樺太(サハリン)全島が
ロシア領となります。ちなみに樺太(サハリン)は、ロシアの流刑地でした。
●1905年(明治38年)7月 - 日露戦争末期のこの時期、日本軍が樺太(サハリン)に侵攻し全域を占領。
●1905年(明治38年)9月5日 - ポーツマス条約締結で、樺太(サハリン)の北緯50度以南が日本領に。以後、南樺太と呼ばれます。
終戦の年の1945年(昭和20年)8月に入ると・・・
●8月9日 - ソビエト連邦が国際法の日ソ中立条約を一方的に破棄して日本に宣戦布告。
●8月11日 ソ連が南樺太侵攻。この南樺太侵攻は、日本がポツダム宣言を受諾した8月14日以降もソ連が継続。
●8月20日 - 真岡郵便電信局事件が起こる。
•●8月22日 – 終戦後の引き上げ船をソ連の潜水艦が攻撃し2000人近くが犠牲となる三船殉難事件が起こる。
・・このようにソ連は太平洋戦争週末には、どさくさにまぎれ、かなり強引な事を数々しています。
【ソ連参戦 8月9日を考えると書いたブログ】
(神宮外苑)
神宮外苑は、明治天皇と昭憲皇太后の功績を後世に伝える目的で、明治天皇の葬場殿の儀が行われた陸軍の青山練兵場跡地に1926年(大正15年)10月22日に完成しました。全国からの寄付金とボランティアで作られました。
ここには、東京ヤクルトスワローズの本拠地・明治神宮野球場があります。
また太平洋戦争末期の1943年(昭和18年)10月21日、明治神宮外苑競技場では「出陣学徒壮行会」が開かれています。
2021年(令3年)の夏に開催が予定されている東京五輪の会場になる新国立競技場も
あります。
【明治神宮外苑公式HP】
(日本に唯一存在する実物の樺太国境画定標石が
根室にある!!)
この神宮外苑にある樺太国境画定標石はレプリカですが、本物が北海道の根室市にある
根室市歴史と自然の資料館に所蔵されています。
ここを訪れ、1つの石に秘められている歴史に思いをはせてください。、
<<樺太国境画定標石への行き方>>
JR信濃町駅から徒歩10分程度、聖徳記念絵画館を目印に。その左側。
住所:東京都新宿区霞ヶ丘町1番1号