道場「撥雲館(はつうんかん)」
道路を挟んだ向かい側に、木造の建物があります。
これが「撥雲館」です。
ただし、外から見るだけで中には入れませんし、近くに寄ることもできません。
「撥雲館」は、近藤勇の一人娘・瓊(たま)と結婚し、天然理心流5代目を継いだ養子の近藤勇五郎が、1876年(明治9年)に、東京都調布市にあった近藤勇の生家の向かいに開いた建てた道場です。
ちなみに近藤勇五郎は近藤勇の兄の宮川音五郎の次男です。近藤勇は近藤家に養子で、その前の姓は「宮川」でした。
「撥雲間」(はつうんかん)という名前は、この地を訪れた山岡鉄舟が命名しました。
撥雲とは暗雲を取り除くという意味で、当時の世相を考えると納得できますね。
最盛期には多摩地区から門人3000人を抱え、昭和50年代まで稽古が続けられていたそうです。
(天然理心流)
江戸時代後期の剣客、近藤内蔵之助が1800年前後頃ごろに創始した流派。
(近藤勇)
近藤 勇(こんどう いさみ)は、新選組の局長として有名です。
近藤勇は、江戸時代末期の1834年、現在の東京都調布市野水に生まれ、近藤家に養子に入りし近藤勇と改名しました。
武芸の能力にすぐれ15歳の時に天然理心流試衛館に入門し腕を磨き、翌年には目録を
受けとります。
1863年、江戸幕府が、将軍・徳川家茂(とくがわいえもち)の上洛警護のために「浪士組」の募集した際に、近藤勇は試衛館の土方歳三など8名を連れ参加し上京します。
しかし、浪士組が攘夷派、京都での将軍警護派、水戸派に分裂します。
京都残留を唱えた近藤勇や水戸派の芹沢鴨ら24人は京都守護職・会津藩主・松平容保(まつだいらかたもり)の保護下に置かれ、やがて「新選組」となります。
その後、近藤勇率いるグループが、芹沢鴨を暗殺し新撰組の実権を握り、近藤勇が新選組局長、土方歳三は副長となり、京の治安維持と、討幕運派の取り締まりを行います。
【新選組幻の駐屯地について書いたブログはここ】
(池田屋事件で脚光)
池田屋に集まり討幕運動を画策した長州藩士などを新選組が襲撃し殺害した有名な「池田屋事件」。
新選組の名を一躍有名にしたこの池田屋事件には、近藤勇と沖田総司が襲撃に参加しています。
【池田屋を訪れた時のブログはここ】
【沖田総司について書いたブログはここ】
(その後の近藤勇)
大政奉還後、近藤勇は旧幕府軍とともに鳥羽・伏見の戦いに参戦しますが、新政府軍に敗れ江戸へ行きます。
その後、近藤勇は新たに甲陽鎮撫隊を結成し幕府軍として戦いますが敗走し、千葉県流山で新政府軍に降伏します。近藤は斬首され、その首は京都に送られ三条河原で3日間さらし首になりました。享年35。
そして、昭和の戦前、近藤勇の生家跡には有志により近藤神社が建てられます。
この撥雲館周辺には近藤勇に関する物があります。
【近藤勇の生家について書いたブログはここ】
【近藤勇を祀る神社について書いたブログはここ】
<<撥雲館への行き方>>
JR三鷹駅から鷹52系統「榊原記念病院行き」または「朝日町三丁目行き」「車返団地行き」バス乗車、「野川公園入口」バス停下車で徒歩1分
住所:調布市野水1-6-8