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8月11日 足利尊氏が征夷大将軍になる

 

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 8月11日は、1338年に足利尊氏が、征夷大将軍となった日です。

 この足利尊氏は、調べてみると裏切ったり裏切られたりの人生です。

弟や自分の息子と対立し、さらに南朝も絡んで来てなんとも複雑です。

 

それでは足利尊氏の人生を見てみましょう。

 

鎌倉幕府の有力御家人

足利尊氏は、源氏の流れをくむ正当な血筋でかつ鎌倉幕府御家人でした。

足利尊氏の名前は、もともと「高氏」で鎌倉幕府の第14代執権・北条高時から

一字もらったものです。

 

鎌倉幕府を裏切る

1333年、足利高氏は、鎌倉幕府の命令で吉野の山に立てこもった護良親王の討伐に向かいますが、途中で反旗を翻し、幕府の京都機関の六波羅探題を攻め滅ぼします。

 

後醍醐天皇から「尊」の字をもらい「尊氏」と改名

鎌倉幕府を倒した中心人物の1人として足利高氏後醍醐天皇から「尊」の1字をもらい足利尊氏となります。

 

後醍醐天皇と決別

しかし、この後醍醐天皇が行なった建武の新政は、天皇を中心とした公家政治であり、武士がないがしろになったため不満がおきます。

やがて足利尊氏後醍醐天皇と対立し京都を占拠し、後醍醐天皇比叡山へと逃れます。

この時期、京の都は尊氏軍と後醍醐天皇の間で、支配したり奪い合ったりと混乱が続きます。

 

天皇を自分で擁立し征夷大将軍になり室町幕府をひらく

湊川の合戦で楠木正成を討ち、再び京都の奪回に成功した尊氏は、自らの手で、光明天皇を即位させます。そして光明天皇は尊氏を征夷大将軍に任じます。

一方、吉野に逃れた後醍醐天皇も、天皇の政治を行います。この時、二つの朝廷が存在し二人の天皇が君臨する南北朝時代が始まります。

 

⑥実の弟と対立

 室町幕府開設後、尊氏は革新派である高師直(こうのもろなお)と政治を行っていましたが、高師直が弟の足利直義と対立し、結果として尊氏・師直派と直義派との間で観応の擾乱が起こります。

そして直義はなんと南朝と手を結びます。おいおい!!

やがて高師直の追放で事態は終結し、直義と尊氏は和睦します。

 

正平一統

和睦したものの尊氏派と直義派の対立は続き、今度は、なんと尊氏が南朝に和議を申し入れし1351年10月24日に南朝に降伏します。おいおい!

これにより、北朝崇光天皇は廃止され、南北朝は統一されます。

これを正平一統(しょうへいいっとう)と言います。

 

⑧弟直義を殺害

尊氏派と直義派の対立はさらに続き、1352年、直義追討のために出陣した尊氏は、直義を降伏させます。

そして尊氏は弟の直義を毒殺します(一説には毒殺ではないという説もあり)

 

正平一統の破断

足利兄弟の内紛も弟・直義の死で落ち着いたのですが、南朝側が尊氏などの北朝勢の

排除を画策し対立し、合戦も起き正平一統は、わずか4か月で終焉を迎えます。

 

⑩実子の足利直冬の決起

足利直冬は、足利尊氏の息子ながら、尊氏とは仲が良くなく、尊氏の弟の直義の養子になっていました。尊氏・直義兄弟の対立の影響は直冬にも起きていました。

九州にいた直冬は本当の父親の尊氏に反発し決起します。

そして、1355年には直冬は南朝と結んで京都を奪回します。おいおい!!

しかし、尊氏の嫡男の義詮に撃破され敗走します。

 

⑪尊氏死す

尊氏は、実子・直冬との一連の戦闘の間に受けた矢傷が原因となり4年後の1358年に

戦病死します。

 

ということで 足利尊氏と言う人は上記の通り、鎌倉幕府を滅ぼした1333年あたりから亡くなる1358年までの25年間は、本当に裏切りやら肉親との抗争やら敵方の南朝と手を組んでみたり、破局になるとか、なんとも大変な激動の人生だったことがわかります。

 

足利尊氏征夷大将軍になった8月11日、この足利尊氏がどんな人生を歩んできたか、

当時の時代背景とともに考えると非常に面白いですよ。

 

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