大阪市の地下鉄谷町線の谷町四丁目駅から歩いて10分足らず、難波宮跡公園の道路を
挟んだ向かい側、住所で言うと上本町2丁目の交差点の角に大きな石の碑があります。大村益次郎卿殉難報國之碑です。この場所は、国立大阪病院南東角でもあります。
大村益次郎は、長州藩の医者であると同時に軍略家でした。幕末の1824年に生まれ、
23歳で大阪にあった適塾.で学び、わずか1年で塾頭になるほどの秀才でした。
第二次長州征伐や戊辰戦争の勝利の立役者でかつ日本陸軍の生みの親でもあります。
維新政府樹立後、大村は新政府の軍隊を、武士だけではなく、徴兵された全国民で構成することを発案します。
しかし、この考え方が武士のプライドを大きく傷つけ反発や不満を抱かせます。
そして1869年(明治2年)9月4日、京都木屋町の宿に泊っていた時に刺客に襲撃され傷を負います。
その後大村は大阪に送られ、現在の碑の近くにあった浪華仮病院で治療を受けます。
しかし、敗血症のため11月5日、46歳で、この地で亡くなりました。
この地には1873年(明治6年)に、歩兵第8連隊が置かれましたが、現在は国立病院
大阪医療センターがあります。
この碑は1940年(昭和15年)に建設されました。1940年・・そうこの年は皇紀2600年、日中戦争の最中で軍国主義真っただ中に、日本陸軍の生みの親・大村益次郎のこの石碑が作られたわけです。
碑には右足を切断して以降も、闘病生活の中で最後まで諸策を練っていたと解説されていました。
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