江戸時代の1821年9月4日、伊能忠敬が日本中を歩き回って実際に測量して作成した、
初の日本地図『大日本沿海輿地全図』(だいにほん えんかい よちぜんず)が公表されました。
この時、測量調査班の班長である伊能忠敬はすでに死亡していましたが、
彼の遺志を継ぎ仲間や弟子たちが完成作業を行いました。
(17年間の実地測量をもとに完成)
「大日本沿海輿地全図」は、1800~1816年にかけて、17年間に第10次観測まで行い、日本全国を歩いて測量していくという実に地道で根気がいる測量をもとに作成されました。
この地図によって、憶測や推測ではなく、日本の海岸線が正確に記述されています。
その正確さは、現在の航空写真でみる日本の形とほとんどぴったりと言う素晴らしい
出来栄えです
伊能忠敬自身は編纂途中の1818年4月13日に73歳で亡くなります。
しかし、彼の死は公表されず、弟子らによる地図が幕府に提出された1821年に、地図の完成とともに伊能忠敬の死も同時に発表されました。
(名家・伊能家)
伊能忠敬は、千葉県北部にあった佐原村の大きな庄屋・伊能家に婿養子として入り
ます。
佐原村は利根川沿いにあり、その水運を利用して物流や情報の出入りが激しく、活気にあふれていたそうです。
伊能家は、ここで酒や醤油の醸造、および金貸し業を営んでいました。
今も街並みが当時の面影を残していて 風情があるんですよ。いいですよねえ。
しみじみ・・・
【佐原の町並み】
佐原村は幕府の天領で武士は住んでいませんでした。
代わりに、伊能家と永沢家の2つが村で大きなぞんざいで、非常に大きな発言力を
持っていました。
伊能家は1783年に起きた天明の大飢饉では私財を投げうって救済しています。
(50歳で学問を志し隠居し江戸へ)
1794年、50歳になった伊能忠敬は長男に家督を譲り隠居します。
そして、翌年1795年に江戸に出て、江戸幕府が設置し天体運行および暦の研究機関で
ある天文方の高橋至時に暦学天文を学びます。
そこで知識や学問、技術を習得し、1800年、55歳の時に、蝦夷地や奥州街道などを訪れて測量する180日間の第1次測量を行います。
1816年に第10次測量を終えたときは72歳でした。
ここ凄いですよね。今と違い、江戸時代の50歳ですよ!
家督を長男に譲ったらもう隠居してのんびり過ごすか、孫の御守りでもしているかと
思ったら、地元を離れ新天地の江戸に行く、しかも学問を学ぶ。
物事に挑戦していくという姿勢は見習いたいものです。
180日間に及ぶ第1回の測量に出発したのが55歳のとき、最後に測量を終えたときは71歳です。このパワー。敬服します。
おっさんは、怠け者でよく壁にぶち当たります。そのとき「もう年だから」「学ぶにはもう時間がない」と消極的になる時に、伊能忠敬の事を思い出し己の怠け心に克つように心がけています。
ちなみに九州福岡県北九州市小倉北区にある常盤橋を訪れたとき、橋の入り口に石碑がありました。
この常盤橋は、小倉から九州各地にのびる諸街道のスタート及び終点でもありました。
ここは、伊能忠敬が九州での測量を開始した出発地でもあり、記念碑が建てられていました。1810年1月12日にここ常盤橋を渡ったと記録されています。
伊能忠敬は日本中を自分の足で歩きました。
皆さんのお住まいの地域も、伊能忠敬が歩いたかもしれませんね(おっさんが昔済んでいた家の前の通りは伊能忠敬が歩いたそうでした)
【伊能忠敬について書いた本はこれがお勧めです】
ということで9月4日は、
伊能忠敬が日本中を実地測量した大作
「大日本沿海輿地全図」が完成発表された日です。