日刊  おっさんの人生これから大逆転だぜえ!(日本史+史跡)

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9月5日 ポーツマス条約締結&日比谷焼き討ち事件

 

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9月5日は

明治時代の1905年(明治38年)に

日露戦争ポーツマス条約が締結された日であり

同時に

日比谷焼き討ち事件が起きた日です。

 

日比谷公園は、皇居と東京駅の両方から近い場所にあります。

もともとこの地は、幕末までは松平肥前守などの大名屋敷地でした。明治時代に入り

陸軍練兵場となりました。

日露戦争開戦の1年前の1903年明治36年)6月1日 に、日本初の近代的な洋風公園として完成しました。

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 日露戦争が起きた翌年1905年、(明治38年)9月5日に日露戦争終結させるために

日本と帝政ロシア間で、ポーツマス条約が結ばれます。

その内容に関して条約締結日の9月5日に、東京の日比谷公園では、 この条約に反対する国民集会が開催され、条約の内容に不満を抱く国民が、「条約反対」「条約撤廃」を

唱えます。それが暴動となり日比谷焼き討ち事件が起きます。

 

日露戦争は薄氷の勝利)

日露戦争では、もともと日露間の国力の差が大きい中での開戦でした。

世界の列強のロシア帝国に東洋の小さな島国の日本が戦争を挑むのでしたが、日本の

勝利を確信する国はほとんどありませんでした。

 

(日露開戦)

日露戦争が始まると、10年前に起きた日清戦争を大きく上回る死亡者、被害を出し、

損害をこうむり、膨大な戦費の負担もありました。国民は、戦争で働き手の男性がとられることや戦費調達の重税にも苦しんでいました。

 

帝政ロシアは、ポーツマスでの交渉の席で「日本軍は首都サンクトペテルブルグを占領してはいない」と主張し、領土分割と賠償支払いには断固拒否で、皇帝のニコライ2世は、戦争継続しても構わないという態度でした。

ただし、日本の明石元二郎が明石機関を作り、ロシアやロシア近隣地域で反ロ工作活動を行い、反ロシア運動、暴動やデモを誘導していたため国内の政情は不安定でした。

 

一方の日本軍は日本海海戦奉天の会戦で勝利はしたものの借金はかさみ、弾薬も不足し、軍事力も消耗し、政府首脳は、速やかな戦争の終結を望んでいました。

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靖国神社の燈籠の柱に刻まれた「日本海海戦」の模様】

 

日本海海戦について書いたブログはここ】

 

(賠償金が取れず、国民の不満が爆発)

ポーツマスでの日ロ交渉では、最終的には、樺太の南半分の譲渡と租借地遼東半島

の移譲を認めたものの、ロシアからの賠償金は皆無でした。

日露戦争の状況に関して、政府は都合が悪い部分は隠していたため、賠償金も取れず

領土も少ししか取れなかったことに国民の不満が高まります。

そして暴徒化した民衆が、内務大臣官邸、国民新聞社、警察署、交番、派出所などを

襲撃し焼き討ちしました。暴動は翌6日まで続きました。

これを受け日本政府は9月6日に戒厳令をしき、近衛師団が鎮圧にあたりました。

この戒厳令は11月29日まで 続きました。

なお、日比谷公園以外にも各地で講和反対の大会が開かれ、神戸や横浜でも暴動が起きています。

 

9月5日は

明治時代の1905年(明治38年)に

日露戦争ポーツマス条約が締結された日であり

同時に

日比谷焼き討ち事件が起きた日です。

 

 

東京都公園協会HPの日比谷公園公式の記述】

<<日比谷公園への行き方>>

東京メトロ丸ノ内線霞ヶ関」下車(B2)出口すぐ、

東京メトロ日比谷線・千代田線・都営地下鉄三田線「日比谷」下車 (A10・A14)

住所:東京都 中央区日比谷公園 1-6

 

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