幕末に大阪で起きた「ぜんざい屋事件」
おっさんの職場には歴史にとても詳しい上司がいます。
その上司が、幕末に大阪市で「ぜんざい屋事件」というのが起きたことを
教えてくれました。
「ぜんざい屋事件」??? 何それ??ぜんざい屋で事件??
何やら思わず笑っちゃいそうなネーミングですが、これは何??
(ぜんざい屋で計画を練った
「大阪城襲撃・将軍暗殺作戦」を
新撰組が事前に察知し襲撃した事件)
「ぜんざい屋事件」について簡単に説明します。
時代は幕末。1865年。江戸時代も終盤で尊王派と幕府派が激しく対立しています。
そのような背景の中、土佐勤王党の残党たちが、大阪市内に火を放ち、その混乱を利用し大阪城に攻め入り、中にいる将軍徳川家茂を暗殺しようと企みます。
冷静に考えれば 当時天下の台所と呼ばれていた大阪市に火を放ち
大坂城に進軍し、将軍を暗殺するというのですから、凄い計画です。
しかしその計画を事前に察知した新撰組が、
そのアジトである「石蔵屋」というぜんざい屋を襲撃します。
その事件を「ぜんざい屋事件」と言います。
現在事件現場はヘアサロンになっていて、建物の壁には、事件に関する説明版が
掲げてありました。
ぜんざい屋事件は、いわば、池田屋事件の大阪バージョンです。
【池田屋事件現場について書いたブログはココ】
(詳細)
では、事の経緯を詳細に見ていきます。
土佐藩浪士たちは大阪に潜伏し大阪の松屋町筋にあった「石蔵屋」という名前のぜんざい屋に9名が潜居していました。
その中の一人に大利鼎吉(おおり ていきち)という人もいました。
尊王派の彼らは、大阪に火をつけ、その混乱を利用し大阪城に押し入り、将軍を暗殺し、そのまま乗っ取るという壮大な計画を立てます。
「将軍を暗殺し大阪城を乗っ取るという壮大なクーデターの打ち合わせや案を練った拠点が、庄屋や豪商でなく、ぜんざい屋である」というこのギャップ・アンバランスさが
いいですねえ。
(計画は壮大だけど・・・)
しかしながら、この計画は「将軍暗殺・大阪城乗っ取り」という大計画ながら、
???と感じることがあります。
まず、大坂冬の陣で徳川家康が大軍を率いても落せなかった大阪城なのに、この計画では、少人数で攻め入ろうとしたことです。これは無謀でしょう??
次に、この計画は、新撰組大阪屯所にいた谷万太郎に知られますが、
実は谷万太郎がいる場所とぜんざい屋は同じ町内。
このような大計画を計画するには情報秘匿に注意を注ぎ、周囲に誰がいるか、
念入りに敵対勢力の存在を調査することはしなかったのでしょうか?
計画を知った新撰組大坂屯所の谷万太郎が1865年1月8日(旧暦)に4人で
ぜんざい屋を襲撃します。
しかし、そのとき、ほとんどの土佐藩浪士は留守で、大利鼎吉と本多大内蔵の2人しかいませんでした。しかも本多大内蔵は裏口から脱出しています。
襲撃する方も1人以外に逃げられたんですから何とも・・・。
(大利鼎吉殺害される)
ぜんざい屋で新撰組の襲撃を受け命を落としたのが大利鼎吉です。
大利鼎吉は、1人だけ残ったため4人の新撰組の志士から4人がかりで殺害されます。
この大利鼎吉は、勤皇の志士で池田屋事件や禁門の変(はまぐり御門の変)にも参加しています。
結局4対1では勝ち目がなく、このぜんざい屋事件で命を落としますが、この時24歳でした。
しかも新撰組の4人を相手に1時間近く戦ったらしく、谷万太郎も「非常に手ごわかった」と手紙に書いています。
(ぜんざい屋跡に残る石碑)
襲撃の舞台となった場所にはパーマ屋さんがありますが、
その対面には石碑があります。
この石碑は信号機と植木の間にあり、見落としがちです。
石碑の側面には大利鼎吉の辞世の句が刻まれています。
「ちりよりも かろき みなれば 大君に 心ばかりは けふ報ゆなり」
「ぜんざい屋事件」は、そのスケールの大きさから、 もし実現すれば大きく歴史の流れが変わった可能性がありますね。
そのような壮大な計画でしたが、今はひっそりと跡地に石碑と看板が残っているだけです。
<<大利鼎吉遭難の地への行き方>>
地味な石碑なので見過ごす可能性があります。
メインストリート沿い、駅を背中にして進行方向右側の信号機の下、
植え込みとの間にあります。
★ここでご注意。
おっさんの失敗談で恐縮ですが、
この石碑があるのは瓦屋町です。
大阪市には瓦町もあります。
おっさんは、間違えて瓦町でこの場所を探し
数時間近所をうろうろしていました。
皆さん、ご注意!!