豊臣秀吉が建てた大阪城は、秀吉の死後、次男の秀頼と、その母淀殿が住んでいました。
しかし、江戸時代初期、1615年に起きた大坂夏の陣で、大阪城は徳川軍に攻められ、
追い詰められた豊臣秀頼と淀殿が、大阪城天守閣の北側にある山里丸にあった櫓に
ひそみ、そこで自害したという記録があります。
大阪城公園内の山里丸。天守の裏側で、刻印石広場の東側になります。
(徳川家康のしたたかさ)
百姓のせがれだった豊臣秀吉は、知恵と努力で、1585年には関白に、1587年は太政大臣にもなり、天下人として君臨します。
しかし1598年、62歳で死去します。この時、跡取りの豊臣秀頼は5歳の誕生日を迎える直前でした。
秀吉に「秀頼を頼む」と託された徳川家康ですが、当然そのようなことは考えません。
まず家康は1600年の関ヶ原の戦いで、石田三成勢を破ります。
そして秀吉の死から5年たった1603年には、家康は伏見城で征夷大将軍に就任します。さらに1605年には将軍の座を息子の家忠に譲り徳川政権の本格的な体制を固めようと
します。
しかし、徳川家の悠久を願う家康には太閤の息子の秀頼の存在は大きな脅威でした。
太閤秀吉の威光がありますし、もし誰かが秀頼を担ぎ出し打倒徳川を叫びだしたら大変です。
そして1614年、方広寺鐘銘事件が起きます。
秀頼が命じて作らせた京都の東山にある方広寺の鐘に刻まれた文字「国家安康」「君臣豊楽」が徳川家康の「家」と「康」を分断し、その一方で豊臣家の繁栄を祈願していると言い出したのです。
おっさんは昔、問題の方広寺の鐘に刻まれた問題となった文字を見ましたが、文字が
非常にたくさんあり、その中からよく、この2つの4文字を探し出したもんだと感じました。
その冬に家康は大坂城を攻め(大坂冬の陣)その後、大坂城の堀が埋め立てられます。そして翌年1615年、大坂夏の陣が起きます。
この時は、もう徳川の時代、豊臣に味方する大名は少なく、また堀が埋められてしまったため大坂城は攻められ落城します。
豊臣方は、徳川家康の孫で秀頼の妻である千姫を通じて秀頼の助命を嘆願しますが、
病床での秀吉の願いを踏みにじり、邪魔者の豊臣残党を抹殺。。。血で血を争う時代とは言え、なんとも悲しい結末です。
【大阪城公式HP】
【大阪城観光ガイド】
JR「大阪城公園駅」から徒歩15分