大阪城内に、大坂夏の陣で大阪城の落城と共に命を落とした淀君、そして淀君と命を
共にした32人の忠霊塔があります。
(1615年大坂城落城)
豊臣秀吉が建てた大阪城は、秀吉の死後、長男の秀頼と、その母淀殿が住んでいました。
しかし、江戸時代初期、1615年に起きた大坂夏の陣で、大阪城は徳川軍に攻められ、
追い詰められた豊臣秀頼と淀殿が、大阪城天守閣の北側にある山里丸にあった櫓に
ひそみ、自害します。
自害地近くに「淀君並殉死者三十二名忠霊塔」があります。
上から見ると堀の近くにあるのがわかります。
下に降りると、写真の左に見える石垣が山里曲輪石垣で、その先にあります。
下の写真の青で囲んだ部分です。
木に囲まれ目立たないので見落とす可能性があります。
これです。
これが、大坂夏の陣で 淀殿らと共に殉死した方々の慰霊塔です。
(徳川家康、豊臣家をないがしろに扱う)
豊臣秀吉の死後、徳川家康はようやく自分の天下が来たと動き出します。
まず1600年の関ヶ原の戦いで、石田三成勢を破り、1603年には、家康は伏見城で
征夷大将軍に就任します。
そして1605年には将軍の座を息子の家忠に譲ります。
その後も秀吉の遺言を無視し息子・秀頼をないがしろに扱おうとします。
(1615年、豊臣家滅亡)
1614年、秀頼が命じて作らせた京都の東山にある方広寺の鐘に刻まれた文字「国家安康」「君臣豊楽」が徳川家康の「家」と「康」を分断し、その一方で豊臣家の繁栄を祈願していると言い出し、大阪城を攻めます。大坂冬の陣です。
そして翌年1615年、大坂夏の陣が起き、大坂城は落城し、豊臣秀頼と淀殿は自刃します。
そのとき、淀君と共に命を落とした32人の忠霊塔がこれです。
殉死したのは32人、真田幸村の嫡男・真田大助もその1人でした。
戦に負けたからとはいえ、かつての大坂城の主の石碑は、
このようにひっそりと目立たない場所にありました。
ちょうどおっさんが訪れたとき、偶然1人の男性がお参りに来ていました。
5月8日が命日で有志の方による供養が行われているそうです。
【大阪城公式HP】
【大阪城観光ガイド】
淀君並殉死者三十二名忠霊塔のすぐ近くには「豊臣秀頼 淀殿ら自刃の地」碑が立っています。
大阪城公園内の山里丸。天守の裏側で、刻印石広場の東側になります。
【「豊臣秀頼 淀殿ら自刃の地」碑について書いたブログはココ】
<<「淀君並殉死者三十二名忠霊塔」の行き方>>
JR「大阪城公園駅」から徒歩15分