1940年(昭和15年)の9月27日、ドイツ帝国の首都・ベルリンにあるヒトラー総統の
官邸で日独伊三国軍事同盟が締結されました。
(当時の国際情勢)
この年、1940年は、昭和15年、日本では皇紀2600年にあたる年でした。
世界情勢を見ると、すでに1937年(昭和12年)からは、中国大陸で日本軍が蒋介石率いる中華民国と宣戦布告なき戦争である日中戦争がはじまり、欧州大陸では1939年(昭和14年)に第二次大戦が始まっていました。
第二次大戦は、ドイツのポーランド侵攻に対しイギリスとフランスが宣戦布告をしたのが、その始まりです。
欧州戦において、ドイツ軍の侵攻は凄まじく、翌年にはパリが陥落します。
ドイツの勢いが強くなると日本では陸軍から「バスに乗り遅れるな」と、イタリアを
交えた三国同盟締結の声が高まります。
日本では、第二次近衛内閣が誕生し外務大臣に松岡洋右が就任します。
そして1940年(昭和15年)9月27日に日独伊三国同盟が調印されます。
しかし、松岡洋右は、1941年(昭和16年)12月8日に、日米開戦を知った時に
「三国軍事同盟はボク一生の不覚」とその締結を非常に後悔し大泣きしたといいます。
(日独伊三国軍事同盟とは??)
1940年(昭和15年)に締結された日独伊三国軍事同盟はどんな条約だったんでしょうか?
簡単に説明しますと、
1、ヨーロッパにおける独伊と、大東亜における日本の、それぞれの新秩序建設に
おいての指導的地位を相互に認め、尊重しあう。
2、日独伊三国の相互協力および、いずれか一国が現在交戦中でない他国に攻撃された
場合は、三国はあらゆる政治的・経済的・軍事的方法により、互いに援助する。
この2つが大きな柱で、アメリカを共通の仮想敵国にしています。
また、日独伊三国軍事同盟の有効期間は10年でした。
(三国以外にも加盟)
日独伊三国軍事同盟は、その後、スロバキア、ハンガリー、ブルガリア、クロアチア、デンマークなども加盟しています。
と言ってもナチスドイツの息がかかった国がほとんどですが・・。
日本が1941年(昭和16年)12月8日に英米と開戦した後、ヒトラーとムッソリーニは
それに呼応する形で12月11日にはアメリカに対し宣戦を布告しています。
日独伊三国共同の軍事行動を見てみると、ドイツとイタリアは距離的に近いのでお互い共同作戦をたびたびおこなっています。
しかし、この2国から見たら日本は遠い場所にあり、なかなかおいそれとは、共同作戦は行えません。
それでも太平洋戦争時に、日独伊はインド洋において共同で通商破壊作戦を行っています。
また日独、あるいは日伊の2国間の共同軍事作戦も行っています。
(四国同盟構想)
日独伊三国軍事同盟締結以前の1933年(昭和8年)には、イタリアとソ連の間には、
伊ソ友好中立不可侵条約が結ばれていました。
また三国軍事同盟締結前年の1939年(昭和14年)にはドイツとソ連の間には独ソ不可侵条約が、さらに三国軍事同盟の翌年1941年(昭和16年)には、日本とソ連との間には日ソ中立条約が結ばれます。
お互いの国々の思惑が絡み合って条約が結ばれていますね。
こうした中で、さらに条約を発展させ、ドイツ・イタリア・日本・ソ連の4か国による四国同盟の締結も考えられました。
第二次近衛内閣の松岡外相は、日独伊三国軍事同盟にソ連を加えたユーラシア枢軸構想を考えていました。
またソ連のスターリンも四国同盟の調印を了承していたようです。
スターリンが四国同盟締結に対し希望を持っていましたが、ドイツはそうとは考えていませんでした。
ソ連は共産主義の国です。ヒトラーが書いた「我が闘争(マイン カンプ)」にはソ連との同盟は滅亡に陥ると書いていました。
そして、1941年(昭和16年)6月に起きた独ソ戦により四国条約は幻となります。
独ソ戦では、スターリンは、この時、四国同盟に期待をしていたために、
ドイツ軍の奇襲を許してしまったという考え方があります。
(三国軍事同盟の終わり)
1940年(昭和15年)に締結された日独伊三国軍事同盟ですが、1943年(昭和18年)にはイタリアは連合国に降伏します。そして、そのイタリアは10月13日に連合国として
ドイツに宣戦し、同盟を破棄します。
さらに1945年(昭和20年)5月7日にはドイツが降伏し、これで三国軍事同盟は失効と
なります。
という事で9月27日は、
日独伊三国軍事同盟がベルリンで結ばれた日です。