「史跡 難波宮(なにわのみや)跡」は、難波宮跡公園で大坂城の近くにあります。
この地一体には2つの時期の宮殿の遺構があり、調査の結果、それぞれ前期難波宮、
後期難波宮と呼ばれています。
前期難波宮は645年の乙巳の変以後、孝徳天皇によって都が置かれ、ここで大化の改新が行われました。
現在は難波の宮があった場所の一部が難波宮跡公園になっています。
公園の入り口には説明を書いた看板があります。
【難波宮案内板より】
難波宮は、広大な敷地で、周囲にあるビルから見下ろすと、その広さが実感できます。
(前期難波宮)
645年、朝廷は大臣として勢力をふるっていた蘇我入鹿を暗殺し蘇我氏本家が滅亡します。
そして孝徳天皇は、人心を一新するために、これまで政治の中心と地だった飛鳥・奈良地域から難波宮に遷都します。
これが難波長柄豊碕宮(なにわとよさきのみや=前期難波宮)です。
朝廷が難波の地に移されたのには理由があります。
当時、中国大陸や朝鮮半島との交易には現在の大阪港【当時の難波津(なにわづ)】が国際貿易港として使われていました。
難波の宮はその難波津の近くにあったのです。
孝徳天皇は、難波宮に日本古来の建築スタイルでる掘立柱形式の宮殿を造営し、
ここで政治をおこなっています。
孝徳天皇と皇太子の中大兄皇子による政治で、唐の律令制度をお手本にした国づくりを始めました。
つまり日本史の教科書で有名な大化の改新はここで行われたのです。
大化の改新は、日本全国の土地と人民を国のものとする「公地公民」、
租税制度の「租庸調」が知られています。
しかし前期難波宮では686年に火災が起き宮殿は焼失します。
火災後、都は奈良の平城京へと移ります。
(後期難波宮)
そしておよそ40年後の724年に聖武天皇が、難波の宮に大陸式の建築様式の宮殿を造営します。そして744年に難波宮に遷都します。
これが「後期難波宮」です。
(はるか昔に思いを寄せて)
難波宮史跡公園は、広い草原ですが、ところどころ当時を偲ぶものが再建されています。
ここにおよそ1400年前、宮殿があり中大兄皇子や藤原鎌足などが歩いていたんだなあと思うと感慨深いです。
何しろ日本史に出てくる大化の改新を行っていた場所なんですから・・
「ここで、あの大化の改新が行われていたんですよ」
それりゃ、感慨深くなりますよ・・。
【大阪府公式HP】
<<難波宮跡への行き方>>